郷愁
「わかった。だけど、同じ屋根の下で別居ということだよね。珍しいねそういうのは」
「お互いに干渉しないことにしましょうということだろうから、却ってありがたいくらいだよ。あいつもただのバカじゃなかったんだ」
「彼女は優しいところがあるし、結構秀才だったんだけどね」
「ずる賢い女だよ。わがままで……やめよう、今更愚痴をこぼしてもはじまらない」
「じゃあ、とにかくきれいさっぱり全部持って行くよ」
「ありがとう。忙しいのに……」
「ひまひま。気が紛れてこっちも助かるよ。じゃあ」
通話を終えたその刹那、夏の到来を告げるような、一陣の強風に斜め下から押されてよろめきそうになった。田島が夏を連れて来たような気がした。
「あっ……はじめまして、笠山先生ですね?」
それと同時に、若い女性のそんな声が風に運ばれてきたように聞こえて驚かされた。
「……はい」
「ファンのひとりです。先生のご本は全部持っています」
美人という程でもないが、ショートカットのこの女性は、誰からも慕われそうな雰囲気を漂わせていた。身を包むライトブルーの制服は、どうやらその近くの銀行のもののようである。自分の著作を読んでくれていることはありがたいことだが、初対面の相手に自分の全てを覗かれていたような、恥ずかしいようなものを笠山は感じた。