郷愁
極端な空腹のせいか紅い色のカウンターで味わう突き出しの肉じゃがは、めっぽう美味かった。冷酒を呑みながらマイクを持って古い歌を歌った。還暦前ながら店名と同じく「スーちゃん」とよばれるママさんは、笠山の歌を真剣な顔で褒めた。ママさんは昔はジャズ歌手だったという。しかし、何度頼んでも彼女は歌を聴かせてくれなかった。かなり肥満した身体の彼女の名前は「スセ」というのだと、数年前に小声で告げ口をするように誰かから教えられた。
「でも、驚いたでしょう」
「めまいがしたよ」
笠山は首を振りながらそう応えた。
「彼女の性格はちょっと理解できないわね」
「亭主にもさっぱり。でも、よくそんな金があったもんだなぁ」
「知らないの?退職金をもらったらしいわ」
「やっぱり会社を辞めたんだね。失業保険で温泉にでも行ったか」
「図星よ。昨日何人かで出かけて行ったわ」
「まあ、こっちも取材旅行とは名ばかりで、半月温泉巡りをしてたんだ。文句は云えないね」
ふらふらと坂道を徒歩で登り、酔って帰宅した笠山は疲労が著しく、寝床に入るなり呆気なく眠りに引き込まれて行った。
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