妖精の寂しさ
彼は困ったように何度も言った。私は泣きながら何度も頷いた。彼はずっと私の頭を撫でてくれた。風に冷たさが混じり、空の色が橙色に変わる。
「ごめん、僕、もう帰らなきゃ。また、会える?」
彼は私の顔を覗き込んで言った。私はまた何度も頷く。
「明日は?」
彼は言う。私は頷く。彼は立ち上がり、
「じゃあ明日。ばいばい。」
そう言って彼は走って帰って行った。
私はその場に座って彼が来るのを待った。私には時間の感覚がない。今まで何度となく同じ場所に佇みずっと眺めてきた。その場に居続けることは私にとって普通の事だから。
日が沈み、そして日が昇る。その間、何人かの人が私の後ろを通ったけど、誰も私に気付かなかった。でもそれを何とも思わなかった。今は彼がいる。ここに居れば彼が来てくれる。
太陽が真上をちょっと過ぎた頃、彼はやって来た。昨日帰ったときのように走って。そして息を切らしながら、
「何となくもう来てる気がしたんだ。」
私は来た訳ではない。居ただけ。
「待っててくれたんだ。」
私は頷く。『来た』の部分ではなく『待っていた』事に。私は嘘が吐けない。必要がないから。彼は私の横にちょこんと座る。そして昨日と同じように川を見つめる。少しして彼は言った。
「もう痛いの治った?」
私は声がちゃんと出るか不安になりながらゆっくり答えた。
「痛くないよ。」
ちゃんと声になっている。そう感じる。私は安心した。
「そっか。良かったね。」
彼は心配してくれていた。でも、勘違い。それでも私の事を気にしてくれている事がうれしかった。
私は嘘が吐けない。必要ないから。今までずっと動物達や人を見続けてきてわかった。嘘は生きる為に吐くもの。動物達が生きる為に姿を他のものに偽ったり、人が人を騙したりするのは生きる為だった。私には必要ない。私には死というものが多分ないから。私には時間の感覚がないし、歳も取らない。生きる為に必要なものはないから嘘も必要がない。必要がなくても嘘くらい吐けそうだけど、私には出来ない。必要ない事は出来ないようになっているみたい。でも、いざ人と会話をしてみると少し困る。
「ねぇ、学校は近くなの?」
彼が聞いて来た。私は首を振る。
「遠いの?」
私は首を振る。彼は不思議そうな顔をする。
「学校、行ってないの?」
私は頷く。
「何で学校に行ってないの?」
私は人じゃないから、なんて言えない。彼には私は人に見えている。だからこうやって私に話しかけてくれている。私は失いたくない。うまく答えられないので私は俯いた。
「僕はあそこの小学校に行くんだ。」
彼は川の対岸を指差した。私が学校に行っていない理由はそれほど気になってはいないみたい。
「でも、夏休みが終わってから。一学期が終わってから引っ越して来たからこっちに友達がいないんだ。前の学校遠くって、前の友達にも会えなくて。だから、一緒の学校だったら良いなって。」
それから私達は毎日のようにその場所で会った。彼は決まって走って帰って行ったし、走ってこの場所にやって来た。私はずっとその場所に居続けた。毎日たわい無い会話。でも、彼にとっても私にとってもそれで良かった。誰かと一緒に居るというだけで。しかし、その大切な時間も終わった。夏休みが終わり、彼の学校が始まったから。それでも私はその場所に居続けた。どうせ他に行く場所なんてない。それに、休みになればまた彼が走ってやって来てくれると思っていたから。
彼はすぐにやって来た。友達と一緒に。友達が出来たんだ。良かった。私は立ち上がって彼を迎える。しかし、彼は私に目も向けず通り過ぎた。私は呼びかける。しかし、もう私の声は少女の声ではなくなっていた。彼には見えなくなった。私が必要じゃなくなった。それでも私は彼を見続けた。何日も、何日も。初めて私が関わった人だから。また気付いてくれると期待して。人との関係を持たない私にとって時間はあっという間に過ぎて行った。彼はどんどん成長していく。そして彼はその場所に来なくなった。私にはここに居る意味が無くなった。この場所を去る事にした。
街に戻る。沢山の人。みんな私には無関心。私は小さく「あー…」と声を出す。暫く声を出していると、ふっと声が変わる。安心する。まだ私を見える人が居る。でも、沢山の人の中からその人を探す事は出来ない。ただの確認作業。また人に接して良いものか悩む。出会ってもきっとまた私の事が見えなくなってしまう。でも、独りではない時間はとても魅力的だった。イブの食べたリンゴ。人の作った話。独りになると分かっていてもまた話がしてみたい。禁断の果実。より孤独を感じるだけなのに。私は人に出会いやすい場所を探した。
公園のベンチ。おじいさんが座っていた。身動きせずじっと。「あー…」少し離れた場所で小さく声を出す。おじいさんに見えるなら私の声はきっとおばあさんの声。確信があったのに私の声は若い女の人の声だった。おじいさんに私は見えない。でも、なんだか気になったので近付いてみる。やはり身動き一つしない。私は隣りに座ってみる。無反応。それでも私はその場に一緒に座っていた。
夕方になるとおじいさんはゆっくり立ち上がり去って行った。帰る場所のない私はそのまま居続ける。朝を向かえる。おじいさんはやって来る。お昼になると上着のポケットからお茶とおにぎりを出して食べる。食べ終わるとまたじっとそのまま。夕方になるとゆっくり立ち上がり帰って行く。私はその場に居続ける。朝、おじいさんはやって来る。昼にお茶を飲み、おにぎりを食べる。夕方、帰って行く。私は居続ける…
何度繰り返しただろうか。毎日同じ。その間おじいさんは私の方をちらりとも見ない。でも、何故か心地よかった。おじいさんには私の事は見えていないけど毎日隣りに来てくれた。一緒に居るような錯覚。不思議な安心感。
その日、いつもと同じようにおじいさんはやって来た。でも、お昼におにぎりを食べなかった。お茶を少し口に含み大きく息を吐く。私は直感した。おじいさんはもうすぐ死んでしまう。今までずっと動物や人を見て来たからわかる。私にはただの繰り返しでも、他のものにとって時間は命を削っていくもの。おじいさんの時間はもうあまり残されてはいない。離れて見ているだけの時は何とも思わなかった。それどころか一生を美しいと感じていた。懸命に生きて死んで行くことに魅力を感じていた。でも、今は違う。いつまでもいつまでも繰り返して欲しいと思う。おじいさんに居なくなって欲しくない。私はおじいさんを見つめる。おじいさんは前を向いたまま。その目は力を失いつつあった。日が傾き始める。もうすぐおじいさんは帰ってしまう。こんなにも時間を止めたいと思ったことはなかった。もう会えないかも知れない。私は無力だ。何も出来ない。ただ見続けるだけ。おじいさんはゆっくりそして辛そうに立ち上がる。私に背を向ける。私は衝動的におじいさんに手をかけそうになった。その時おじいさんは一言呟いた。
「いつもありがとうな。」