その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
俺はもう一度羊元を見た。あのやり取りの間に柳崎が加勢していて、彼女は結構ボロボロになっている。助けたい。助けなきゃ。そう思うけど、今の俺は無力だ。何もできない。銃も使ってない。剣だって持ってない。軍人が使っているのは警棒みたいなものだ。だから、これはきっとこの世界の戦争は、戦争というよりも、喧嘩や闘争に近いんだと思う。喧嘩なんてしたことないけど、それなら俺にだって何かできるはずなんだ。
勇気はない。力もない。頭脳なんて言うまでもない。ただ、正義感だけはまだ残っているはずだ。俺にとって、羊元を助ける動機はそれで充分だった。
でも、何か契約しなきゃ助太刀しても、羊元が契約破棄者となってしまう。それは良くない。無い頭をフル回転させる。目の前で戦う羊元は完全に劣勢で、彼女の持っていた巾着袋も酷く邪魔そうだった。そこで気付く。
そうか、その手があった。
有効かどうか解らない案を持って、闘争の中に向かって走り出す。
「有須っ!」
宝亀が俺の名前を呼んだが、振り返らない。
本当に、羊元の事しか見えていないようだ。軍隊に俺が紛れ込んでも、誰も俺を襲ってはこなかった。それもそれで怖いけど、今は好都合だ。雲がかかり、空が紫色に染まったせいで、白の群れの発色はさらに良くなり、目をチカチカさせる。
さっき彼女が見えた位置に行くと、いきなり巨大な編み棒が旋回してきた。俺は思わずしゃがんで避ける。喧嘩は慣れてないし、運動神経は悪いけど、意外と反射神経はあるみたいだ。ここにきて新発見。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷