その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
「いってぇ!」
不幸にも、俺の下敷きになった人がいた。ここで女の子とかだったらドラマチックだっただろう。でも残念ながら、それは男だった。そんな贅沢を言ってられるほど余裕だったわけじゃない。ただ、パニックを起こしている人間ってのは、意外とこういうどうでもいいところに神経が向いたりする。
声に驚いてさっさとどいた俺は、謝ろうと彼を見た。そこで動きが止まってしまう。なぜなら、彼が首輪を付けており、その首輪には立派な鎖が付いていたからだ。ついその先を追うと、きちんと杭につながっていた。言っておくが、彼は犬ではない。性質的にはどうかわからないけれど、どこからどう見ようと生物学的には人間である。
俺が落ちた腹部をさすりながら、彼は俺を見てきた。茶髪は珍しかないけど、外人に対して免疫のない俺には、その金色の瞳のインパクトは大だ。彼も驚いているようで、しかし唐突に感動した。
「すげぇ!お前天から降ってきたの?」
「あ、ああ・・・」
てっきり怒られるのかと思ったのに、どうやらかなり温厚な人のようだ。つい助かったと安堵する。彼は鎖をジャラジャラと鳴らして、胡坐をかいた。大学生くらいで、少なくとも座高は俺より高い。服装はそういうものがあるのかわからないが、大層奇抜だ。街中を歩いていたら、人々の視線を集めるだろう。ただ、むき出しになっている肩はきちんと張っていて、たくましさがうかがえた。
俺が無意識とはいえ凝視しているにもかかわらず、彼はにこにこと楽しそうに笑っていた。
「お前、どっち?」
何の質問かは解らなかった。ただ、彼の姿から察すると、あまりよろしくない話題な気がする。
「いや・・・どっちとか自覚ないけど・・・少なくとも俺にそういう趣味は・・・」
「は?」
ぽかんとした顔をされた。彼が求めていた話題はそっちではないらしい。つい恥ずかしくなって、耳まで真っ赤になった。ついうつむくと、雑草が赤色だったことにひそかに驚く。
彼は「何の趣味かはわからないけど」と切り出した。
「オレが聞きたいのは、『赤』か『白』かってことなんだけど」
今度は俺が「は?」と聞き返してしまった。けれどもその質問はどうも常識的な話だったらしく、相手にぽかんとされる。初対面の相手にいきなり説明を求めるほど図太くなれず、俺は「赤」と「白」が何の隠語なのか頭をフル回転させた。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷