その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
ところが、羊元は隣を素通りしていった。ぽかんとしていると、後ろの方で彼女が口を開く。
「あんたも久しぶり。鷲尾を逃がしたのかい?」
「私がそんなことをするとでも?」
「そうだね。あんたがそんなことをするとは思えない」
羊元の年齢は、見た感じ中学生と高校生の境目あたりだ。なのに、喋り方が妙におばさん臭い。別に老け顔でもないのに、代わってマセガキっぽさがある。ガキって年齢ではないけど、すくなくとも背伸びしてる感じだ。化粧してる中学生を見た時と同じ気持ちかもしれない。
納得をした羊元は、クルリと身をひるがえすと、その場で声を張った。
「鷲尾、あんた、どうやってあの公爵夫人から逃げたんだい?」
「アリスだよ。そこにいるだろ」
鷲尾が指差し、彼女はそれを追って初めて俺を見た。真正面から見ると、彼女の瞳は久々に見た夜色だった。実は俺の友達にはあまり黒目っていないんだけどな。
羊元は前まで歩いて来ると、俺をじっと見てきた。とうとう観察され慣れてきたぞ。こんなんで俺はひかない。が、すっかり忘れていた。今さっきまで見ていたのに。
彼女が、俺の体に触ってきたのだ。
「うわっ!」
「なんだ?」
思わず声を上げると、彼女が驚いた。
「なんだ」と言われれば何でもない。何でもないんだけど、俺的にはちょっとスキンシップには慣れていないわけで。サッカーとか、野球とか、みんなで「やったぜー!」って抱き合うような世界を経験したことないし。男同士でさえ、そりゃそうなんだけど、別に体を触ることなんてない。絶対ない。いや、少なくとも俺の周りにはいないんだよ!
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷