その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
これは彼女の物で、俺とぶつかったことが原因で落としたのだと。いや、俺が直接原因だとは言わない。それは今落ちている懐中時計の位置と、そこまで俺が五歩以上は移動したという事実が裏付けてくれる確たる証拠だ。しかし、だからといって無関係というのも難しい。ぶつかったというのも事実だし、ぶつかったのが時計を付けていた左側であったというのもある。というか、基本的にこれを無視するわけにはいかないし、何よりも俺の良心が疼いた。
懐中時計を拾った俺は、慌てて彼女の走り去った方を追った。幸い俺は足だけは速い。いや、陸上部とかの世界に入れば、たぶん「やっとこさ平均値」ってレベルなんだろうけど。
駅に向かう学生の波をかき分けて逆走する。見えるのは紺色やグレーのブレザーだけ。もういい加減無理かと思った時、波からふっと一人の少女が外れた。臙脂色みたいな学生服らしい色じゃない、鮮やかな赤色のブレザー。
――見つけた!
寮に住んでいる友達に連れまわされている俺は、この辺の地理が結構得意だ。彼女が右に曲がっていったので、俺は一本手前の道で右に曲がる。二本の道の間には入口こそ小さなアパートが建っているものの、何メートルもいかないうちにすぐ開けた公園がある。一本手前で曲がっても、彼女を見失う心配はない。また、コスプレするような人を見たことがないので、この辺の住人だと言う線も極端に少なかった。週六日間毎日学校に通う学生なめんなよ!
案の定、彼女が公園の向こう側を走っている姿をすぐ捉える事ができた。じっくりと見てみれば、彼女はまるで異世界の人のようだった。きっとマンガやアニメのキャラクターだから、カツラか何かをかぶっているのだろう。真っ白で長い髪の毛が走るたびにうねっていた。俺は金色の懐中時計をぎゅっと握りしめる。古風に見えるが、新品かと思うくらいきれいに手入れされている。きっと、大切なモノなんだ。
俺が彼女を数メートル追いこして、そこで左に曲がって公園に入った。このまま公園を横切れば、彼女とはち合わせることができるはずだ。しかし。
彼女まで、左に曲がってしまった。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷