その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
「公爵夫人が帰ってくるときに、迎えがいないとダメなんじゃねぇの?」
するとメイド服が再びスプーンを持ち上げた。
「心配には及びません」
外した。
「ちょっ!それに!俺追っかけてて本物の亀まがいが侵入してきたらどうすんだよ!」
するとメイド服の動きがまた止まった。動く時と言い、固まる時と言い、本当にロボットみたいで気味が悪い。重たいとしても、大股開きで匙を構える姿も喜ばしくない。いや、「スプーンを構えている」というのは喜ばしくないとかそういうレベルじゃないんだけど。
ショートしたのか?メイド服は全く動かなくなった。足腰に感覚が戻ってきて、そろそろ立てそうだ。逃げるなら今だ。
けど、世の中そんなに甘くないらしい。メイド服は少しだけ下がってしまったスプーンをもう一度持ち上げた。
「あなたが鍵を盗んだ以上、亀まがいは来ません」
「それは違うだろ」
妙に冷静になって訂正してしまった。逃げる隙を生みだすことが不可能じゃないと余裕ができたせいだろう。俺も驚き。
ぽかんとした顔の彼女に、俺は思い付きを並べ立てる。
「俺は亀まがいと知り合いじゃないし、だったら亀まがいはまだ鍵は家にあると思ってんじゃねぇの?」
「・・・・・・」
沈黙が怖い。
「それは・・・そうですね」
よし!もうちょっとだ。
「だろ?だったら俺なんかより、亀まがいを待った方が『忠実』なんじゃねぇの?」
「・・・・・・」
沈黙が取れないまま、十分くらい経った。いや、体感時間で。たぶん現実的には二分も経ってないと思う。そろそろと後退し、ゆっくりと立ち上がると、俺がもともといた斜め下を見たまま固まっていたメイド服が、おもむろに顔をあげて俺を見た。恐怖でドキッとする。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷