その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
ともかく状況は解った。やっと理解した。
「アリス、逃げるぞ」
確かにそれが最良の判断だ。鷲尾に従おう。
でも、羊元はそうじゃなかった。
「ふざけんでないよ!あたしの店がつぶれてしまうでないか!」
そう言って、編み棒を構えた。戦うつもりなんだ。でも、勝てるわけがない。思わず腕を掴んでしまった。
「店より命だろうが!」
正論を言ったつもりだ。小学校のときから、道徳とかそういうので習ってきたからな。命あっての物種。生きていなけりゃ意味がない。
しかし彼女は手を払ったかと思うと、凄い形相で睨みつけてきた。
「店があたしの命だよ!あれがなくなりゃ、あたしは死んだも同然だ!」
「契約はここまででいい。逃げたきゃ逃げな」と言って店の方へ駆けよっていくのを、止められずに見送った。
俺は、あんなふうに何かを大切に思ったことはない。あそこまで、何かに入れ込めたこともない。言えたらカッコイイなと思っていたけど、実際聞けば、そんなこと言えなかった。
自分が、少しさみしい人間みたいだ。
いや、みたいじゃない。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷