安全な戦争
「あんたって、つくづく馬鹿ね」
ベッドの隣についている机の上で肘の上に顎を乗せながら、香山綾乃二等陸曹が呆れた表情を寄越している。お見舞いに来たんだし、そもそも誰からも帰還祝いをしてもらっていない俺は彼女に何か慰めの言葉を聞けると期待していたから、イスに座ってからの開口一言目に、もうすでに帰ってほしいと思った。
「メンタルは強いみたいだけどね……」
それは何か「馬鹿は風邪ひかない」の類のようなことを言っているのだろうか。確かに俺は数えるのも嫌になった訓練と数多くの実戦によって図太い神経を持っている。それは認めるが、俺はまだまだ立派な若者である。全てを抱え込むことができるような域になるまで俺は戦士として成熟していないことは承知してほしいね。
「うるさい。こうして俺は今も仕事してるんだ。邪魔をするなら帰ってくれ」
「うるさいとはなんなのよ。こうして見舞いに来たのに」
偉そうに口をききやがって。俺は医官の一等陸佐に仕事をするなと言われているのに、直属の上官の言葉を真摯に受け止めてペンを走らせているんだぞ。少しは俺の努力を認めろ。
「いくらあんたが訓練で丈夫にできているとはいえ、人間なのよ? そのうち壊れちゃうわよ」
同情するような意見に、俺は少しうろたえた。第二空挺団においてオペレーターを務めている彼女からそんな言葉が出来るとは思わなかった。ちなみに空挺戦車を使った偵察任務で小隊長を務めていたのは綾乃である。
「なんだよ、いきなり……」
俺はてっきりアメリカのデルタの隊員をぶん殴り、今こうして始末書を書いていることを馬鹿にされていると思っていただけに、拍子ぬけした。
「じゃあ、始末書はお前がやってくれるのかよ?」
「なに馬鹿なこと言ってるの? それはあんたがやったことでしょう。なぜ私が手伝わなくてはいけないの」
じゃあなんでそんな言葉をかけるんだ。俺はペンを置いて、綾乃のことを見た。こいつは以前からも馬鹿だ、あほだ、お前の脳味噌には何が入っているんだ、という過激発言で他の男性自衛官を退けるような女である。口を開くまでは美人――顔は小顔でショートカットがよく似合い、体系も日々の訓練のおかげで引き締まっており、しかも出るところは出ているというプロモーションの持ち主――の彼女の真意がわからない。
綾乃は俺にいきなり見つめられたことが恥ずかしいのか顔をそらし、もう一度向き直って「なに?」とにらみつけてきた。
「あ、いや、手伝ってくれないなら、なんで同情的な意見を寄せるんだよ?」
綾乃はそんなことか、とため息を漏らした。
「あんた、逃げてるでしょ?」
「逃げる?」
予想外の返事に驚きながら、俺は聞き返していた。
「そう、逃げてないかって言ってるの」綾乃は俺の始末書の束を指さし、「そうやって書類仕事をやって逃げてるんじゃないの」
俺はわからなくなった。俺は逃げるどころか、始末書を書いて事故のことについて向き合っているじゃないか。もっとも、村一つを焼き滅ぼすことを妨害したことを事故と呼んでいいのかどうかはわからないが。
「もしかして自覚してないわけ?」
俺の反応を見ながら、これは重傷だわ、とまたまた深いため息をついた。
「私は戦闘員を助けるオペレーターだからね、いろいろとわかってくることがあるのよ。例えば任務が始まる前と終わった後で表情が全く違うとかね。音声を聞いている限りでは訓練とは変わるところがないし、問題なさそうなんだけど、顔色が全く違うの。特に戦闘行為があった時とそうでなかった時は特にね」
綾乃はずい、と俺の胸を指さして、
「あんた、このままだと自分で自分を殺すわよ。特に柏木士長と沢村三曹の二人の部下の死を見ている。しかも殺戮現場も。人の死を見て聞いて体験して、平気な奴なんてこの世には存在しないわ」
綾乃の理屈は確かに正しい。俺も訓練の一環として人の死に対する心理学を教官から講義を受けている。耳にタコができるほど聞き、任務の時には覚悟していたのだ。敵でも味方でも、人間の死を見た時は等しく最も重いストレスがのしかかると。
俺たちは、戦場は人の生き死にの場であることを前提に訓練を受けている。だからこそ日々訓練していた。どれだけ体力を消耗しようとも、精神に多大な負荷がかかろうとも、前に進むために。戦闘に勝つために。
その後遺症が俺には表れるはずなのだが、というのが彼女の言葉だ。しっかり向き合わなかった分だけ自分自身にツケが回ってくるのは重々承知している。いまさら彼女の口からそんな言葉を受けなくてもわかっている。