安全な戦争
前夜祭は、夕方の太陽が沈みかけたところで始まった。
村の中央には祭壇が用意され、周りには大きな日のたいまつが用意される。巨大なキャンプファ
イヤーみたいだ。
その周りを派手な衣装を身に着けた村の女性たち何やら不思議な踊りをして周っている。その中
にはアンナもいて、女たちに混じって踊っている。
踊りが終わると、大柄の男たちに囲まれて村長が穀物を祭壇に納める。村長も村の女性に負けな
い派手な衣装を身に着けており、これまた軽快で奇怪な踊りをしながら次々に穀物を収めていく。
全ての穀物を収めると、村長は何事か叫んだが、訳が分からなかった。
「あの言葉はね、もうここ一帯では使われなくなった言語なんだよ」
役目を終えたアンナが俺の耳元でささやく。
「使われなくなった?」
「そう。昔はイギリスが植民地として支配していてね。その時に言葉を無理やり英語にするように
されたんだって」
「そう……」
「でも、祭りなどの伝統は守ってきた。言葉は捨てちゃったけど、文化だけは守り続けた誇りがあ
るんだよ」
その点は、日本と違う。俺たちは太平洋戦争でアメリカに負けて、日本語を喋ることはできたけ
ど、今までの文化を捨てることを強要された。日本人による日本観は、形骸化しつつある。オタク
文化に興味を持っている外国人のほうが詳しいんじゃないかな。
村長が捧げものをしている間、名称がわからない楽器で演奏が行われる。打楽器や笛が主流で、
とても愉快な音楽が演奏されている。
「あれはね、神様を招待するための儀式なんだよ。ああやって踊ったり、音楽を奏でたりしながら
捧げものをすることで、こちらはもう準備ができました、って知らせてるんだ」
「それで明日の正午に本番をやるのか」
「うん。儀式の後は催しが行われるけど、それは神様が赦されたことだから。今年一年の感謝と来
年一年の想いをこめて、みんなで楽しむの。それを見た神様の気分次第で、運勢が決まるといった
仕組みよ」
「気分屋なんだな、神様っていうのは」
「あら、実際そうだと思うわよ。誰かが病気になるのも、天候が荒れたりするのも、こんなにも気
まぐれじゃなかったら、世界は美しくないと思うわ」
アンナの言葉に、俺は疑問符で質問を返した。
「美しい?」
「そう。この世界はさ、わからないことがすごいと思うんだ。もし何もかもがわかるようになった
ら、まさに決められたレールの上を走っているという感じで、つまらないと思う。目的地がわから
ないからこそ、個性があると思うしね」
「つまり一つ一つが、不確定要素でできている集合体だから、美しい、と」
「難しい言い方をするね。やっぱりあなたとあたしとではずいぶんと違うみたい」
アンナは口を押えて笑った。その笑い方がかわいらしくて、俺は頭をかいた。
「いや、こんな風にしか喋れないんだ」
「いいと思うよ。それは個性だから、大事にしなよ」
個性というものが重視されるようになったのは、コンピュータという媒体によって情報が氾濫し
た時からだ。
洪水で防波堤が破壊されるように、人間の頭の要領では賄いきれないほどの情報が日々入ってく
る。それは街ですれ違う人々と同じだ。一人一人の顔を覚えている奴はいないのと同じで、膨大な
量の情報を取捨選択しなければいけなくなった。
そこで個人は小さくなり始めた。どんなにホームページを活用して自分という存在をアピールし
ても、何か他人よりも優れたものを持っていなければ注目はされない。政治家や評論家、企業家な
どは注目される人々で、それ以外のほとんどは見向きもされない。
その情報の氾濫が整備されるときが来ないまま、俺たちは生活を豊かにし、安全・安心・安泰な
社会へとただひたすら走り続けた。
明日を予測することができる生活。天気予報も、病気の告知も、将来への投資も、全てが分かる。
個人には選択肢が与えられ、道がある程度決まった状態でゴールを目指す。明日は何をしようかと
いうことを、人生プランナーと丁寧な相談ができる社会。
みんなは言い始めた。自分は誰だ、と。
その言葉の呟き一つ一つが整備される前、自分たちは何をしていいのかわからない人が多かった。
芸術に入り浸る人、宗教という未知なる世界に入る人、あるいは個を滅却して普通という言葉に溺
れる人。
社会は戦争という状況を提供した。世界はこんなにも醜い。だから私たちで世界をよりよくして
いきましょう。大変な苦労を負っている人々の為に働くべきです。今まで蓄積されたノウハウを、
今こそ使うときです、と。
そこに軍隊とういう組織はぴったりと、ピースがはまるみたいに収まった。国際貢献を国が全面
的に援助してくれる体制が整えられていき、今の俺たちは存在する。
そこに個性は存在する。役に立つ自分がいて、インターネットという情報の海に溺れなくても済
む生活ができる。人と人との関わり合いが、こんなにも身に染みてわかりやすい世界はなかった。
人生プランナーはこう言ってくれる。あなたはいい体験をしましたね。これからの社会にとって
とても役に立つことです。どうかこれからも、あなただけの能力を使って、私と一緒にゴールを目
指していきましょう、と。
全てが予測され、確定された社会。人々は自分の言動に注意するだけでいい。そうすれば個性に
あった立場が手に入る。自分が自分でいられることができる。多種多様化された世界の中で、専門
性の高い人間がより活躍できる。
自分は自分でいられることの大切な世界と、アンナが言うような何もわからない世界。より正し
い個性はどちらなのか、と問われたら、俺は答えることができない。
俺は前者しか知らない。ここにいて、儀式をしている人たちは未来を予測することができない。
人生プランナーもいない。
それなのに、みんなが生き生きとして生きているのはなんでだろう。俺には分からない。将来を
提示されない社会にいるのに、どうしてそこまで楽天的なのか、理解できない。考えただけでぞっ
とする。胸が押しつぶされそうになる。
「それは決して大事なことじゃない」
アンナは虚を突かれたという顔をしていた。
「これからもっと大事なのは、これからの人生の中でどう生きていくかだ。利口に友人関係を作る
のもいいと思う。でもそれは、人生を豊かにするうえでの小さな材料でしかない。もっと大事な何
かがあるはずだ。君にはわからないのか? こんな儀式をやっている暇があるなら、もっと勉強し
たほうがいい。これからも人生が長いんだから、今からでもやるに越したことはないさ」
「……馬鹿なのね」
アンナの表情から軽蔑の視線が注がれた。俺は除夜の鐘みたいに、頭の中でその言葉が何度も反
響していく。
「明日を生きられるかどうかわからないからこそ、今を生きるの。あたしとあなたは違う。あなた
の服装を見ても、それは決定的なことだけど、これだけは言える。あたしたちを馬鹿にしないで。
あたしたちにはあたしたちの生活があるの。それをわからないで、自分たちの言い分を押し付けよ
うとするなんて、本当に残念だわ」
アンナは立ち上がった。村の広場では前夜祭が終わったようで、村民たちは眠い顔をこすりなが