安全な戦争
「あ、お疲れ。大変だった?」
俺が息を切らしているからだろう。アンナが夕食の準備をしながら心配そうな顔で声をかけてき
た。
辺りはもうすでに真っ暗で、ここに来る途中、寝息が聞こえる家もあった。俺は戦闘中、電子情
報が表示されるコンタクトレンズを両目に入れている。これは各兵士に与えられた情報端末の一つ
で、視ることに対して最大限注意を払いつつ、様々な情報提供や視覚の保護をしてくれる。たとえ
ば今の状況などがいい例で、暗闇の中を歩けるように自動的に光の補修率を数百倍にまで高めてく
れる。光の強弱によってオン・オフが切り替わるため、突然フラッシュグレネード――強力な閃光
と大きな音が出る手投げ弾――を受けない限り、状況によって変わる快適な視界を得られる。
「ああ、大丈夫だ」
アンナの家では、小さなろうそく数本が部屋を照らしだしていた。俺は自動補正された視界が使
えるため部屋の済み済みまで見ることができるが、彼女は火にともされた周囲数十センチしか見え
ないはずだ。
「意外と人使い荒いでしょ? 普通はお客さんにこんなことさせたらいけないんだけど……許して
ね」
「客人には?」
「そう。普通はお客さんを心ゆくまでおもてなしをするのが私たちの習慣。いくら場違いなよそ者
とはいえ、仕事を手伝ってもらおうとは思わないわよ」
「そうなのか」
「でも……時期が時期だったしね。祭りの直前でみんなバタバタしているの。もう少しゆっくりし
たら、私たちの村のことを紹介するわ。今日はありがとう」
「いや、いいんだ」
俺は家畜小屋の掃除をしている合間に、救難信号である『V』の字を描いてきた。この『V』は
遭難者を探している航空機に使うSOS信号だ。俺はスコップを使って穴を掘り――穴を掘るのは
陸上自衛官として当然できなければいけないこと――、村の付近を通過すれば否が応でも目に入る
ように大きく描いた。
しかし、実際はこんな苦労をしなくても見つけてくれるはずなのだ。俺たち隊員は自衛官になっ
た時、ICチップを体内に埋め込まれる。そこにはIDが付属されており、誰がどこにいて生きて
いるのかが、検索すれば瞬時にわかる。それも人工衛星のおかげで、体内に埋め込まれたGPSと
思ってくれて構わない。俺たちは常に管理されている。
そのはずなのに、未だに吸湿の兆候すら見えないとはどういうことだろうか。ここから一番近い
基地は五百キロ後方にあるため、すぐに飛んでくるとは思わないが、発見されて連絡をよこしてく
るはずだ。たとえ骨伝導装置が故障したとしても、管理する側はエラーの表示が出た時にわかるた
め、古典的な方法でもいい、連絡が来るはずだ。それが来ないということは、ここはゲリラに囲ま
れた危険地帯ということなのだろうか。すでに、あのライダーとその仲間たちによってここ一帯は
包囲されていて、その脅威におびえた連合軍が手を全く出さない?
あり得ない。そんなことはない。彼らならやるはずだ。この区域で戦闘が激化した時には対地ミ
サイルを飛ばしていた。テレビなどのメディアでは報道されていないが、民間人とゲリラ兵を問わ
ず、ここ一帯は焼き尽くされた。もちろん、新開発された特殊な爆薬を搭載したミサイルを使って。
俺はそのころ、生まれてもいなかったから実際に見たわけではない。それでも彼らの行動原理か
らして、それはおかしなことだ。たとえどんな末端の兵士でも、傭兵とは比べ物にならない予算と
時間がかかっている。たとえ俺が戦場から逃げてきたとしても……。
「どうかした?」
アンナが顔を覗いてきた。俺はそれにハッと気づき、彼女の顔を見つめた。
「なんか……考え事をしているみたいだけど?」
彼女のまなざしは、とても素直なものだった。彼女は俺を助けてくれた。俺のような変な輩を招
き入れれば、ゲリラ兵に狙われる危険だってあるだろう。ここがどんなに警戒区域で、異常があれ
ば遠く北アメリカ大陸の大地から無人爆撃機が来たとしても、彼女は死んでしまうかもしれない。
戦場は常に必然ではない。時には偶然が重なるからこそ、俺は一人だけ生きている。絶対にとは言
えない。人はいつか死ぬ。
「さ、冷めないうちに食べてよ。まずくなるよ」
アンナが料理に使った皿は、ステンレス製のものだった。かなり使い込まれているらしく、ゆが
んだり傷ついたりしている。そのほかにもスプーンやグラスなど、すべてがステンレス製。一体ど
こで入手したものなんだ?
「ああ、これ? わかんないなぁ。物心ついたときにはいつもこれだったし」
物心ついたころというと、もう十年以上は使われている計算になる。日本では一般的なステンレ
ス皿でも、こんな砂漠の辺境の土地では、購入しようにも通貨の格差が大きすぎるはずだ。
「さぁ……。村のみんなもこれを使っているし、変だとは思わないなぁ」
彼女は料理を目の前にして、目をつぶった。神に祈りでも捧げているのだろうか。微妙に動く唇
を見た俺は、それくらいのことしかわからない。
アンナは目を見開き、スプーンを手に取った。それを見た俺もスプーンを取り、食事をする前の
あいさつを口にした。
「いただきます」
俺は皿の一つ一つを取り、スプーンで口の中に食事を入れていく。自衛軍に入り基地生活が長く
なった身としては、久しぶりの手料理だ。基地内では確かに料理係がいるが、マニュアル通りに作
られた高カロリーメニューは、毎日食べていると気持ち悪くて仕方がない。運動をしないとあっと
いう間に太っていく。そんな悪魔のような食事とは対照的に、彼女が作った料理はパン、スープ、
野菜炒め、何かの肉、と比較的ヘルシーなものだ。俺は久しぶりの手料理を味わいつつ、かつての
家が懐かしくなる思いがした。
こうして、食卓を囲んで食事をした。まだまだ小学生だったし、お母さんの手料理が一番美味し
いものだった。俺が朝食を食べていると、お母さんは朝の忙しい時間でバタバタと動き回り、お父
さんはコーヒーを飲みながら悠長にテレビを見て、弟は毎朝寝坊したと言いながら階段を駆け下り
てきて――
「ごちそうさま」
単純に習慣だ。きれいに食べ終わると挨拶をする。そしてあの夢の続きを夢想しないためにも、
終わりを告げさせてもらった。
アンナも食べ終わっているが、何やら物言いたげな視線でこちらを見てくる。
「なんだ?」
「いや、その……。何を言っているのかと思って」
「ああ、食事の時のあいさつだ。子供のころから教えられているし、これが普通だと思ってる」
「ふーん。私はこの近辺の宗教の慣習で、食べる前には祈りをささげないといけないの。食べ終わ
った時には特にないんだけど、おまじないか何か?」
「まぁ、それに近いものではあるな。食事を食べる前に自然に感謝する。食べた後も感謝をする。
日本では食べ物が貴重な時代のほうが長かったから、先人たちはありがたみを強く感じているんじ
ゃないかな」
「へぇ。それは私たちでも同じ。食べ物は貴重だから、祈りをささげる。一年に一度行われる感謝
祭だって、今年の作物を収めて感謝して、来年の豊作を願うものなんだ。日本の国にもそんな習慣
があるとは思わなかった」
「そうなのか」