ウリ坊(完全版)
カップの処遇(ウリ坊)
一体、ここはバーなのか銭湯なのか。
酒瓶が古めかしい木の棚に並び、コマの如き椅子はカウンターと共に
床から生えている。いかにもバーくさい。しかしコーヒー牛乳が用意
されているのはどういう訳か。何故店の奥から時折、木肌が水を弾く音が
するのか。その上、レンジの存在はもっと謎である。
悩んでいると、背後から今年の春が呼ぶ。
いわゆる春の声という奴だが、内容はおいらにとって不愉快なものだった。
「あのちっこい女、帰っちまったぜ、ウリ」
「えっ、い、いつの間にだよぉ」
確かに恵は忽然と姿を消していた。
「店を長時間開けてられないんだってさ。なんだその顔。もしかして帰り道
わかんねえのか?」
分からない。本当に殺生な飼い主である。
しょうがねえな、と今年の春は空気をもやもやさせると(もしかすると
笑ったのかも知れないが、見た目ではよく分からない)
「休憩時間に駅まで送ってやるよ。その代わり手伝え」
「わかったよぉ。ありがとうだよぉ」
おいらはお手伝いの王道とも言うべき皿洗いをしようと、カウンターの下から
くぐって入った。水場では水道水と洗剤が混ざり合い、肌に染みるような匂いを
放っている。水滴の跡がわずかに残る水回りと、上の棚に置かれた多いとは言えない
ワイングラス達。
おいらが近づいていくと、洗い立てであろう、水回りに並べられた真っ白な
カップのうちひとつがカチカチと音を立てた。
「あなたも、どこも欠けたり割れたりしてないのォ? やーだァ」
驚きのあまり硬直した。
自宅の食器はしゃべったりしない。と、いうことは、あれは飼い主の趣味で
揃えられた「しゃべらないほうの食器」だったのか?
「ほーんとォ、やんなっちゃうわァ。ここにいる奴らったらもォ、
長持ちするしィ」
「それの何が嫌なんだよぉ」
馬鹿っぽい口調に我に返る。好奇心を刺激されてしまっていた。
「当ったり前でショ? このアタシの美貌が目立たないじゃない?」
「はぁ?」
欠けていずとも、全て同じカップである。確かに機能美はあるが目立ちようがない。
「ね、アンタほんっとーに、どこも欠けてない? それ、誓える?」
誓えるも何も、左の奥歯ならちょっと欠けている。明日にでも動物病院に
行こうと思っていたのだ。おいらはつい、大きな口を開けて左の奥歯を
見せてしまった。
とたんに、嬉しげな声が水回り中に広がった。
カチャカチャカチャカチャ欠けてるワ欠けてるワとカップは騒ぐ。
よほど嬉しかったのだろうが、はしゃぐ声に悪意がにじんでいて
釣られ笑いなど出来ない。頭が痛くなるほど不愉快だった。
背後で気温が三度くらい上がった。
カップが風に煽られバケツの中に落ちた。カップは甲高い悲鳴を上げたが、
気絶でもしたのか、すぐに大人しくなる。
振り向くと、今年の春がいた。
「しゃべる食器もまあ、善し悪しだな」
「ひょっとして、しゃべる方が珍しいのかよぉ」
かすかに空気が震えた。笑ったのだろうか。
「お前、チビだもんな。いいか、こういう古くからある店しかもう使われて
ねぇんだよ。売ってもねぇし。俺も昔は良く、ワインを飲みながらグラスと
語り合ったもんさ」
「そ、そんな貴重な物簡単に捨てて良いのかよぉ」
「良いに決まってるだろうが」
今年の春は何故か投げやりに言う。
「語り合えるグラスやカップがこの店の売りなんだ。ただしゃべる奴は置いとく
気になれねぇよ」