ウリ坊(完全版)
春の到来(飄)
これは恋だろうか。僕は手の包帯を見ながらひとりごちた。あの日出会った
恵という女性。年は僕と同じくらいだが(ちなみに僕は24だ)、しっかりした
様子でてきぱきとウリ坊を救出して、僕の手の傷の手当てをしてくれた。もう一度
会いたい……そんな気持ちが頭の中でこうぐるぐると。
幸い僕はこういうときにどうすれば良いのか知っていた。秋波というのを飛ばすんである。
僕は秋波をひねりだし、キス出来そうなくらい近い春の空へと投げた。しばらくすると、
今年の春が怒鳴り込んできた。
今年の春は暖かな空気で出来ていて、触れると幸せな気分になれるらしい。だが
いきなり飛んできた春風に殴られた僕は無論、全く幸せではなかった。
ちなみに今年の春とは桜の紋所を付けた空気のカタマリである。
「やい、きさま。今は春だ。分かるか? 分かってるかコノヤロウが。何で
秋波なんか飛ばすんだよええ。早く春が過ぎて俺が隠居すれば良いと思ってんのか!?」
「は、春なのに、随分とじっとりした性格ですねえ……」
「てめぇ、春を舐めんなよ。ぽかぽかしてるだけが春じゃねえんだぜっ」
どうやら決めぜりふらしい語尾の跳ね上げ方をする。
と、ゆらめく春の空気越し(としか言いようがない)に、意中の人が歩いてくるのが
見えた。足取りはいかにも気乗りしないといったもので、目の前を歩いている
ウリ坊を今にも蹴り転がしそうである。
これは絶対、秋波のおかげである。やってみるものだ。
恵は立ち止まると、こちらを見て不思議そうに小首を傾げた。
「もう春がこんなところにまで来ている……」
「こ、こんにちは恵さんっ」
僕はうわずりそうになるのを堪えながら声をかけた。今年の春は機嫌悪そうに
振り返ったが、ウリ坊を見ると目の色というか空気の色を変えた。ピンクに。
「おお、可愛いじゃねえか。ウリ坊とは珍しいな」
「こんにちはだよぅ」
ウリ坊は手を上げる。恵はウリ坊の首輪を外してやると、抱き上げて今年の春に近づいた。
「おお、なんだ嬢ちゃん」
「花見代わりに。今年は仕事が忙しくて連れて行ってやれそうにありませんから」
「うわぁ、桜がきれいだよぉ」
「そ、そうか? 俺きれいか? 照れるな」
「安心してください。ウリ坊が言ってるのは桜のことです」
「あの、恵さんっ、良かったらうちでお茶でも飲みませんか」
恵はようやっと気付いた、という感じで僕を見た。
殴られてまで呼んだ春だ、ここでチャンスを逃してはたまらない。