ウリ坊(完全版)
わくドキ鏡(ウリ坊)
恵が珍しく朝から家にいる
休みの日は朝から家の掃除をしたり、日用品の買い出しに行ったりと
忙しい彼女だが、なにやら奇妙なことをしていた。
台所のテーブルで花柄の細い筒を本に当て、なにやらうっすらと微笑んでいる。
かなり怖いとおいらは思う。
「何やってるんだよぉ」
彼女はしばらく間をおいて、おっくうそうにこちらを見た。
「見れば分かるんじゃないかね?」
「筒がなかったら本を読んでるんだと思うよぉ。けれど筒があるんだよぉ」
ああ、これ、とまるで初めて存在に気付いたかのような様子で言う。
「これはわくドキ鏡といってね、まあちょっとネーミングが恥ずかしいんだが
本に当てるとその本を読んだときと同じカタルシスを得ることが出来るんだ。
本を読む時間が無いときとか、字を読めない人が使うんだ」
「おいら、使ったことないよぉ」
「当たり前だ。ウリ坊は学を付けてもらわなきゃ困る。楽人(らくと)のためにも」
おいらはぷきゅうと鳴いた。突然、顎が外れて幼い男の子が顔を出す。
「呼んだ?」
「呼んでない」
恵は即答した。
「なぁんだ、つまんないの」
おいらはえいやっ、と顎を掴んで元に戻した。
おいらの体の中には子供がいる。楽人という4歳の男の子だ。といっても、
恵の子供ではない。訳あって引き取った甥っ子である。
おいらのような子育てペットは、飼い主の子供を学生寮入学資格の
出来る7歳まで体内で育てる。世話を焼く。家事もする。体内で育てると
言っても一体化しているので、筋力や精神性の発達には何ら問題が出ない。
ちなみにワニはたぶん介護ペットである。飄のおじいさんが入ってるのだろう。
この世界が出来てから、人は死ななくなった。病気にもならないし、
人は成人してしばらくたつと老化が止まる。恵は26歳で止まった。
2年前の話である。そして年を数えるのを忘れる。もちろん、世界が出来る前に
老人だった人は老人のままだが。
裏ペットショップは、そういった動物を扱う、神さま指定店のことだと、
この間恵が教えてくれた。
「ちょっと貸してくれよぉ」
「良いよ。私は買い出しに出かけてくるから」
おいらは恵から筒を受け取った。細長い黒い筒。側面にぐるりと梅の模様の
和紙が貼られている。
良いことを思いついた。おいらは恵の本棚からきれいな表紙の本を
選ぶと、今年の春の家へと向かった。
この間生まれたばかりの梅の、良い玩具になると思うのだ。
子供のおいらがこう言っても彼らなら許してくれるだろうと思うので口にするが
生まれて初めて出来た友達に、おいらは会いに行った。
今年の春の家に着く。軒先に風鈴が下がり、青葉は繁り、門の前には打ち水用の
ひしゃくとバケツが置いてあった。何とも夏めいた光景である。
よく考えたら夏が好きそうな性格である。何故、春は春になることを選んだのだろうか。
今年の春は相変わらず元気そうに漂っていた。
まあ入れよ、の一言で門を抜けると、すぐに玄関なのはご愛敬だ。梅は
ネコの額ほどの内庭で飛び跳ねて遊んでいた。
「あんなことをしたら花弁が傷付くよぉ。やめさせてよぉ」
「すぐ治るから良いんだよ」
そういうものなのだろうか。やがてこちらに気付いたのか、梅が嬉しそうに
転がってきた。花弁にはいくつもの傷が付いていて、ちょっと痛々しい。
おいらは本を広げ、恵がしていた通りにわくドキ鏡を当てた。梅が興味深げに
レンズを覗き込む。だがしばらくして離れた。さっきまで遊んでいた
所へと戻っていく。
おいらは原因究明のために本を覗き込んだ。
「……しい……は……の……です?」
ひらがなは読めるのだが。うーむ。
わくドキ鏡を使ってみた。丸いレンズを覗いたとたん、おかしな気持ちになった。
植物を育てると花が咲く。凄く嬉しいんだけれどすぐに枯れる。実がなるのは
嬉しいんだけれどそこにきれいだった花びらがしなびてくっついているのがイヤだ。
実がなるのは嬉しい。けれど自分はもっと花を見ていたかった。美しい花を。
例えるなら、そんな感じだ。
突然、本が手から離れて浮いた。春だ。
「花の詩集? こんなの赤ん坊に分かるかよ」
「でも、おいらも子供だけれど、なんか辛いよぉ。むずむずするんだよぉ」
今年の春は、怒ってるのかな、と思うくらいぶっきらぼうに言う。
「じゃああんたは、この本に書かれている気持ちをもう誰かからもらってるんだろ。
梅はまだ幼いから、俺はまだやれないんだ」
言って桜をまき散らす。笑っているのだ。
「冷蔵庫にスイカがある。食うか」
「春がスイカ食べるのかよぉ」
「おう。真冬も食うぞ。最近は旬関係ないからなぁ」
今年の春は明るい声を上げ、また周囲に桜をまき散らした。