都市伝説
健が振り返る。無言は否定ではない。肯定でもないが、とにかく拒否はされていない。有香は勢い込んで言葉を続けた。
「トレンチコートの男っていると思う?」
健は軽く眉根を寄せた。
「わかんねー」
「やっぱりそいつが犯人なのかな」
「わかんねーっつってんだろ。つうか、犯人って何」
「だから、誘拐の」
「誘拐とも決まってねえだろ」
鬱陶しげに言い切られ、有香は口を噤む。最近の兄はとっつき難い。家の中では学校と比べればそこまででもないのだが、こうやって叱られた後は覿面に機嫌が悪くなる。
「よくわかんねえ事だらけだけど」
ぽつりと健が呟いた。有香は顔を上げる。
「もし誘拐なら、なんでそいつら簡単についてったのかな。警戒心とかねえのかな」
「……無理やり連れてかれたとか。車に押し込まれて」
「出来ないとは思わないけど、ぜってぇ騒ぐだろ、普通は。騒がせもしないで連れてけるもんか?」
「わかんない。けど、大人の男の人だったら出来るんじゃないの」
「大体さ。ニュースでも散々言ってるけど、女とヤローが混じってるのもおかしいって」
それには有香も頷いた。この年齢になればなんとなく理解出来てくる性差の厳密な意味、けれどどうしてつい先日いなくなったのは男子だったのか。
「マジな話、最初のやつと、次のやつぐらいはもう死んでると思うんだわ。俺は」
思わずぎょっとなって、有香は兄を見上げた。
「何それ。縁起でもない事言わないでよ」
「だってよ、人間一人生かしておくのって、すんげ大変だぜ。金もかかるし。考えてみろよ、自分が1日どんだけ飲んだり食ったりするか。どんだけ便所行くか。風呂も入るし服も替えるだろ?」
頷く。確かに。それはそれで、とても恐ろしい想像だ。いなくなった子供は殺されて、そしてどこに死体があるのだろう。生き物の死体というものが、おいそれと簡単に隠しておけるものではない事ぐらい、有香にだって簡単に理解出来る。
思わず黙り込むと、健は青くなった妹の頭を小突き、そのまま何も言わずに自室へと入って行こうとする。
「お風呂の順番、次お兄ちゃんだよ」
慌てて有香は声をかけたが、健からは返事ともつかない反応が返っただけだった。扉が閉じられ、一方的に会話が終了する。有香は盛大にため息を吐いた。
+
1週間後。次の犠牲者が出た。
有香達の通う小学校で、3年生の女子が休日に図書館に行ったきり行方が判らなくなったのだ。
正式な報道は親の通報があってから3日後に公開されたが、学校では女子がいなくなった翌日から既に教師達は顔色を変え、生徒達は落ち着きを無くしていた。
発表を待つまでもなく、予想は事実を的確に指していた。
現実が迫って来た、と、有香は朝礼台の上で喋る校長を見ながら思った。今までは対岸の火事だった出来事が、すぐ目の前に降ってきた。
女子生徒と面識のあった同級生の中には、あからさまに取り乱している生徒もいた。友人の沙智はその女子生徒と同じ幼稚園出身で、幼い頃はよく遊んだ事もあったと言って、唇を噛んで俯いていた。励ますように手を取ると彼女の手のひらは汗ばんで震えており、沙智が怯えているのが伝わってきた。
ここへ来て始めて、有香は、心底怖いと思った。得体の知れない存在が身近に潜んでいる恐怖。それはいつ、誰を、暗がりから絡めとって連れ去ってしまうか判らない。
この日から更に母の心配は度を越し、それでも兄は平然と今までのペースを守り続け、家の中でも学校でも、落ち着かない苛々とした空気が消える事は無かった。
けれど、と有香は考える。つい先日、学校に出かける直前の事だ。靴を履き終え顔を上げると、母が心配そうに自分の頬を撫でてから「行ってらっしゃい」と言った。
健にも、健がむすっとした表情でいるのを承知で、少し背伸びするように息子の頭を撫でていた。玄関を出てからつと降り返ると、父に鞄を渡している母の表情は、不安や心配と言った種類で表現出来るものではなかったように思えた。
もしかすると専業主婦である母は、こうやって家族全員を送り出した後、誰か一人でも損なわれる事なく帰って来る事を願い過ぎて、過剰反応になっているのかもしれない。
有香の感覚ならば、例えば休日のある日、兄が遊びに行って両親も出かけてしまって、留守番を頼まれるとなると、喜んで見送ってしまう。多少家の中の手伝いを言いつけられたとしても、誰かが帰宅するまでは天下だ。気兼ねする事もなく好き放題が出来る。
けどそれは、皆がある時間になれば帰るという絶対の保証の上に成り立つ自由であって、もしそんな不安感を少しでも抱いていたとしたら、悠長に伸び切ってなどいられないのかもしれない。家にいる時の母がどんな風に時間を過ごしているのか判らないが、だとしたら尚更、健の態度は許しがたい。
有香は腹を括った。兄の性根を叩き治してやる。
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またいつものように集団下校の列の中、有香は、沙智や裕子の横からそっと離れた。
少しずつ歩く速度を遅くして、後列でだらだらと歩いている兄達の集団を横目に捉える。見つかっては元も子もないので、距離は大きく取った。
有香達の下校集団は、小学校の正門から出てしばらく左へと歩き、大きな道路へと向かう。その道路を渡ってしばらく住宅街が続き、ここに大半の生徒の家がある。また進むと団地があり、残りはほとんどが団地の子供だ。
不意に、兄ともう1人が速度を落として列から離れた。今まで一緒にいた生徒も、特に気にするでもなく、小さく手を振って見過ごす。
道路を渡る前の小さな横道に入り、古びたアパートの密集する路地を曲がる。有香も慌てて列から離れた。
何度か道を折れた後、不意に開けた場所に出た。有刺鉄線を適当に張り巡らせた杭が囲う空き地、その破れ目から兄達が引き起こしたのは自転車だった。有香は小さく舌打ちをする。自転車で動かれたら、とてもじゃないけれど追い着けない!
それぞれ自転車に跨り、しかし彼等はまだ動こうとはしなかった。しばらく待つと、兄と同年齢程の男子が二人、自転車に乗って現れた。またしばらくすると1人。彼は兄達と同じように自転車を空き地の茂みから引き起こした。
最終的には10人を超えたあたりで、ようやく有香は理解した。兄の所属する、少年団の野球チームのメンバーだ。試合を見に行った中で、見覚えのある顔が幾つかある。
それにしても、遊ぶにしては集まり方が妙だ。こそこそとしているし、何よりずっと雑談の類を一切しようとしない。全員が大真面目な表情で、時計を睨んだり、周囲に気を配ったりしている。
「……行くぞ」
低い声に、有香ははっとなって顔を上げた。比較的体格に恵まれた彼等の中でも、一際大きい男子が発した声だった。
自転車のチェーンが滑る音、兄もその集団と共に動き出した。去年の誕生日に買って貰ったお気に入りのマウンテンバイクにまたがり、ゆっくりと走り出す。
慌てて有香が角から出ると、既に自転車の群れはスピードを上げ始めたところだった。一瞬棒立ちになり、それから有香も走り出す。
しばらく小走りに駆け、不意に、集団は四つ角で三方向に別れた。最初から予定していたようで、誰も声を掛け合わなかった。