都市伝説
トレンチコートを着ているのだという。帽子を目深に被り、襟を立てている為に顔は見えない。中肉中背というところ。性別は男性に見える。
判っているのはそれだけだ。他は何も。性質の悪い冗談とも思える。何しろ目撃証言は初秋から始まり、これから冬へと向かう季節までも、ずっと変わらず流れ続けている。
大人は、特に警察は一笑に伏した。子供の思い込みが作り上げた、空想の人攫い。
ただ、噂を確定に変え、そして目にした事もないものをあたかも自分自身が見たかのように語る危険は、子供だけの習性ではない。人間共通の悪癖だ。トレンチコートの男と、立て続けに起こる児童の行方不明事件。この二つを安易に繋ぎ合わせる事こそが危険だ。
しかし現実問題として、このところ立て続けに子供が行方不明になっているのは否定出来ない。
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有香は集団下校の群れの中に、二つ上の兄の姿を探していた。
最初の行方不明者が出て以来、有香たちの住む街の小学校では、次々に集団登下校が始まった。授業後の委員会活動も校庭や体育館開放も無くなり、掃除が終わればさっさと帰される。外に遊びに行くのもご法度だ。正直言ってつまらないし、窮屈だし、いい迷惑だとも思う。
行方不明の子供が出たということは、その子供達を行方知れずにした要因があると言う訳だ。それは特に頭を悩まさずとも判る。
家出か。事故か。誘拐か。確立が高そうなのは誘拐だろう。だとしたら誘拐犯を恨んでも、誰も文句は言うまい。とにかく、有香が知っている限りではもう、県内で4人の少年少女が家を出たまま帰って来ない。
ようやく兄の姿を認めて、有香はほっと息を吐いた。
「お兄ちゃん」
呼びかけて駆け寄る。同級生の男子と笑い声を上げて昇降口から出て来た健は、妹を視界に入れた途端、面倒そうな表情になった。同級生も、にやにや笑いながら兄妹を見ている。
それだけで有香は嫌な気分になったが、とにかく自分は母親からの言付けをきちんと伝えなければいけない。ぐっと唇を引き結び、睨み付けるように兄を見据える。
「お母さんがね、今日はちゃんと帰って来なさいって」
はあ、と健がため息を吐いた。同級生の笑いが更に濃くなる。
「それと、帰って来てから遊びに行くのもダメだって」
「努力してみる」
気の抜けた返事だった。声色も同じく。全く努力などしそうにない。
そうして兄はきっと集団下校の列を抜け出し、平気な顔で遊びに行ってしまうのだ。遅くなってようやく帰宅し、母親がヒステリックに叱ろうとも、かなり低い遭遇率で夜遅く帰宅した、疲れて機嫌の悪い父親に怒鳴りつけられようとも、その場はふて腐れた表情でいながらおとなしく聞き流し、そしてまた同じ事を繰り返す。それが判っていたから、有香も有香なりに阻止してみようと思ったのだが。
軽く押し退けられ、健は同級生と共に自分のクラスの集団へと向かって行ってしまった。一人残された有香は、頬を膨らませてその後姿を見送った。
「すんごい顔」
ぽん、と肩を叩かれ、振り返ると同じクラスの裕子が立っていた。
「だめ?」
「全っ然だめ。人の話聞いてない」
ぐぐぐ、と、怒りを込めて拳を握って呟くと、裕子は弾けるように笑った。
「でもさ、有香のお兄ちゃんなら大丈夫だと思うよ?身体大きいし」
「まあね。中学生に間違われるぐらいだもんね。でも大きいのは身体と態度だけなんだからっ」
腕組みをして母の口真似をして言うと、裕子はまた笑った。
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最初は5年生の女子だった。下校中、友達と別れてからの足取りが消えた。それが1ヶ月も前。
次は3年生の女子。遅刻気味に登校して行って、結局学校に着く事は無かった。それが3週間前。
その次は6年生の女子。学習塾の帰り道、駅から自宅に「これから帰る」と電話を入れて、それきりだった。2週間前の出来事だ。
ここまで立て続けに、しかも同じ県内で頻発するとなると、あまりにも異常過ぎる。警察は公開捜査に踏み切り、連続誘拐事件と位置付けた。
しかしそんな努力をあざ笑うかのように、今度は2年生の男子がいなくなった。私立の小学校に通う生徒で、遠方の友人宅に遊びに行った帰りにいなくなった。
性的いたずらを目的とする誘拐の路線で捜査を進めていた警察は、俄かに翻弄された。
身代金目的でもない。誰からのコンタクトもない。目撃者もない。残留品も見つからない。子供達は何の手がかりも残さずに消えた。
神隠し。宇宙人が連れ去った。そんな現実味に乏しい言葉を平然と口にする大人がいる一方で、つい最近、子供達の間でも一つの噂が囁かれている。
「――トレンチコートの男が連れてったんだよ――」
道の角に立っている。顔は見えない。トレンチコートを着て、同色の帽子を目深に被り、手はポケットへ。ズボンと靴は黒。大人も通る道には滅多に現れない。こちらが集団なら何もしない。見ているだけだ。深く被った帽子の奥から。けれど一人でいる時に会ってしまったら、絶対に目を合わせてはならない。目があったら。
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「……連れてかれちゃうよ、ってか」
結局のところ、あのまま兄はまた列を抜け出したらしい。気楽なことだ。
階下で母親がまだ怒っているのを聞きながら、有香はベッドの上で寝返りを打つ。
流石に夕食の時刻を過ぎて帰って来た健には、母親もキレてしまったらしい。玄関の上がりかまちで、自分よりも背の伸びた息子の頬を平手打ちする瞬間を目撃してしまい、先に食事を始めていた父と共々、呆気にとられてしまった。
おかげで今日は父が宥め役を買い、母がとんでもない勢いで怒りを爆発させている。途中までは有香もとばっちりを食らって叱られて、釈然としないながらも神妙に座っていたのだが、父が目配せをくれたのを期に、さっさと自室へと引き上げてしまった。
あそこまで自己中な兄が羨ましい。そりゃ自分は不安は少ないのかもしれないが、例えば妹の身を案じて一緒に帰って来ようとか思ってみたり、母を心配させまいとしてみたり、そういう事は出来ないのだろうか。
確かに世間があれだけ騒いでも、どこかしら遠い出来事の様に感じている自分がいるのも否めない。だから有香は面と向かって兄を非難出来ない。両親の名を借りて、いい子の顔をして建前を振りかざす。最低だ。
けれど仕方ないじゃないか。いなくなった子達とは面識がない。彼等の過ごしていた世界との共通項は、ただ同じ県内で小学生をしている、ただそれだけでしかなかったのだから。
そんな事よりももっと有香にとってリアルなのは、明日の漢字の書き取りのテストだったり、クラスの女子の間で流行っている可愛い手帳だったり、ちょっと格好いいなと思っている同じ委員会の5年生の男子だったり、つまりはそういう日常だ。
第一、有香や有香と特に近しい人間は、トレンチコートの男すら見ていない。無責任な噂を流しようにも、噂の形骸すらも掴めてない。そんな嘘は一発で見抜かれる。存外に、子供の世界は嘘吐きには冷淡に出来ている。
階段を上がってくる足音に、有香はばっと身を起こした。あのやる気のなさそうな、けれど体重の乗った足音は兄のものだ。彼が隣の自室に入ってしまう前に扉を開けた。
「お兄ちゃん」