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水槽

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「……生物教師選んだのは、それでなら教員免許取れたからだよ。実習来た時の感触も悪くなかったし、実際どっか企業に入るより性に合ってるとも思ったしな。公務員って言うのも、耳障りは悪くない」
「同じようなこと、夏川先生も言ってました。もうちょっと不真面目でしたけど」
 納得した様子で深く頷かれ、名取はうんざりと手を振った。
「あの人と同じにしないでくれないか。大体『時間も金も確保しつつ絵が描きたかったから』で教師になったにしちゃあ、学校行事に馴染み過ぎてる」
 ああ、と声を上げて、凛は何度か頷いた。
「文化祭や体育祭になると、生徒に混じって騒いでますからね」
「どっちが子供だか分かりゃしない」
 げんなりしながら言うと、凛は弾けたように笑い声を上げた。少しだけ、顔色が戻ったような気がする。
「杉沢は。なりたいものはあるのか」
 一転して、凛はぽかんとした表情を浮かべた。そんな突飛な事を言っただろうかと首を捻る。教師と生徒、しかも生徒は高校3年の夏。進路の話を振ってもおかしい事はあるまい。
 反応を見守る名取からそろそろと視線を外し、リノリウムの床に落とす。当惑したように顔を伏せ、唇を引き結ぶ姿を見て、名取は再度首を傾げた。
 自由な校風と個人能力を伸ばすカリキュラムを謳い文句にしているだけあって、進路を狭めるようなコース選択は無い。凛の成績は飛び抜けており、彼女の望む限り国内で進めない進学先は無いという、もっぱら職員室内の評判だ。だからこそ彼女に迷いがあったのかと、改めて驚く。
 しばし迷って、それでもまだ口を開くのを躊躇って、凛はようやく顔を上げた。
「……やってみたい事ができたんです。けどそれは、ずっと自分がこう進んでいくんだろうな、と思ってた道と全然違うから」
 名取は、うん、と頷くに留める。
「こんな時期になって迷って、どうかしてると思うんですけど、思い切りが着かなくて。安全な方に行くか、失敗してもやってみたい方に行くか」
 安易には答えを返せない話だ。彼女の一生を左右するかもしれない問題。けれど。
「それに最近、怖い夢を見るんです」
「怖い夢?」
「真っ暗な夜の海の中にいるんです。海底に水槽が沈んでて、魚が泳いでるんです。水槽の中で」
 軽く首を傾けて、その情景を想像する。濃く藍色に近いような、けれど透明な夜の海。沈んで揺らいで、そこには他に何が見えるのだろうか。
「大きな水槽なんですよ。それがぽつんと打ち捨てられてるっていうか、海底の砂に少し傾いで置いてあって、乱暴に捨てられたのかな、って感じなんです。その中に小さな魚がいるんです。名前は分からないけど、黒っぽいような魚が」
 名取の脳内のモノトーンの世界が、更に彩度を落とす。
「水槽だから当然上は開いてて、勝手に出て行けるのに、その魚は出て行かないんです。ぼんやり漂ってるだけなんです。それを見ててすごくもどかしい。どうして一人でいるの、なんでそこから出ないの、って叫びたくなるんです。でも声が出なくて、近寄ろうとしても身体の自由も利かなくて、そこでやっと気がつくんです」
 振り仰いだ凛の表情は、笑いたいのか泣きたいのか判別が付き難かった。
「その魚、私自身なんだ、って」
 目を見開く。軽く笑ってホラー話か、と返そうと思って失敗した。確かにそれは迷走する今の状況では恐ろしいかもしれない。
「そこで目が覚めて、汗びっしょりになってて。ああまただ、どうしよう、て思うんです。模試受ける度に、これでいいのかなって」
 張り詰めていた緊張をゆっくりと解いて、凛は大きくため息を漏らした。こちらにもその緊張が伝染していた事に気づき、名取は手のひらの汗を白衣でそっと拭う。
「……杉沢」
 声をかけてから、言葉を選び出す。上手い事など何一つ言えやしない。何しろ自分は腰掛教師だ。教員生活も7年目を向かえ、担任の経験も1度ある。やる気が無いだの曖昧なスタンスだのと老年の教師から厭味を言われても、馬耳東風ですと言わんばかりに流してきた。
 それでももう、年若く迷走する傷つき易い年頃の少年少女に無責任な事は言えないと無意識に思えるくらいは、自分はきっちりと教える立場の人間になっているのだ。
「特別教室の周辺の掃除は、クラスで持ち回りだろう。なった事あるか」
 いきなり変わった話題に、凛は小首を傾げた。深刻に張り詰めた表情も消えている。
「あります。春先かな」
「そうか。じゃあこんな事無かったか。ここらへんの廊下で、タニシや魚の死骸が転がってた事が」
 聞くと、凛は露骨に眉根に皺を寄せた。
「私は見てないんですけど、同じ班の子が言ってました。窓が開いてたから猫がかき回したんじゃないか、って」
「猫じゃないよ。毎週毎月、タニシの被害は生徒から申告される。魚はごくごくたまにだな。でも、無いわけじゃない」
「……どういう事ですか?」
 怪訝そうな表情になった凛に、水槽を指し示してみせた。緑色に煙る世界。
「一番最初に陸上に上がった魚は、何を勘違いしてそんな事をしたんだろう。やっぱり最初はどいつもこいつも加減を間違えて死んだかもしれないな」
 一進一退。まだ地球の覇権が水の中にあった頃、地上に楽園を求めて飛び出した種があった。それは世界の至る所で見られた光景だったのだろう。
「けど、それだけの魅力があったんだ。地上には。天敵のいないかもしれない世界。地面を駆ける身体をや空を飛ぶ翼を手に入れて、その代わりに永遠に水の中で生活する機能を失った。それが俺たち人間の、遥か遠い先祖だ」
 こくりと頷く凛。水の中で息をする機能を。小さく呟く。
「いつの時代もどの生き物にも、フロンティアってやつがいる。安住の地を顧みずに、タニシは這い出るんだよ。魚は飛び出しやがる。当然死ぬ。けどこいつらはまたやる。死んだ『個』としてはそれまでで、何も意味を成さなかった行為だ。この水槽の中の世界においても、やはり進化もあり得ないから意味を成さない」
 けれど。けれど、と思う。自分たちはそれを馬鹿に出来ない。向こう見ずを決して馬鹿になど出来ないのだ。
「なあ、杉沢。『杉沢凛』の世界においては、ちょっくら何匹かが冒険して飛び出す事すら、許容出来ないか」
「え」
 驚いた顔。けれどそれは、決して彼女のカテゴリ範囲外から振って来た言葉ではない。
「何かが何匹か死ぬかもしれない。けど、杉沢凛は死なないだろ。何でもやってみりゃいいじゃないか」
 言ってから、名取は軽い眩暈に襲われる。なんだこの型通りの台詞は。どこの熱血教師だ。しかし凛はそうは思わなかったらしい。驚いた表情がみるみるうちに笑みへと変わる。
「先生、先刻の撤回します。やる気ないとか腰掛け教師だとか」
 笑みを全開に浮かべ、凛は楽しそうに続けた。
「先生って本当は教えるのが好きなんだと思う。それも教科書通りとかじゃなくて、自分で納得した論理展開に基づいて調べた知識を下敷きに、ってやるのが。だからテストも論述が多いんでしょ?先生が投げたボールを生徒がどうやって打ち返してくるか、それが見たいんじゃないんですか」
 今度は名取がぽかんとした表情を浮かべた。意図しないままに投げたら、思い切りよく打ち返された。一発逆転ホームラン、だ。
作品名:水槽 作家名:あすか