水槽
呆気にとられている名取の様子にまたくつくつと笑い、凛は片手を挙げた。
「ありがとうございました。ちょっと気が楽になりました。飛び出しますよ、水槽」
明るく言われて、やはり少し責任を感じる。だが、明るく返した。
「おう。飛び出す方向決めたら、一応教えろよ」
「もちろん、報告に来ます」
ありがとうございました。繰り返して、凛はぺこりと頭を下げる。そのまま踵を返し、ぱたぱたと廊下を去って行く後ろ姿を見送って、名取は大きく息をついた。進路相談か。慣れない事はするもんじゃない。
そのまま実験室に入ろうとして、ふと水槽越しに窓から下を見降ろす。よおーい、と掛け声。ぱん、と乾いた間の抜けた音を立てて、同時に派手な水音が上がった。水泳部員の銀色の水泳帽が水を蹴立てて25mを泳いでいく様、プールサイドにも順番を待つ部員達。更にその向こうのグラウンド、木陰で休息を取りながら身体を動かしているのは、分かる限りでは陸上部と野球部、サッカー部。典型的な真夏の風景だ。
暑い、と一言呟いて、名取は美術科の準備室へと足を向けた。絵画に程よい気温室温を保つ為、人間にとっても心地よい空調が年中かかっているあそこなら、適度に涼めるだろう。
どうせ美術部員と共に油彩に取り組んでうんうん唸っているであろう同僚に、腰掛け教師呼ばわりした返礼をしないとと思いながら、廊下を進んでいく。
夏川はともかくとしても、もう一人の美術教員の笹井の入れるアイスコーヒーは旨い。勿論インスタントではない。とりあえずそれが目当てでいいか、と胸中で呟いて、名取は大きく伸びをした。
真夏の熱帯夜と、テストの採点と、生徒の進路相談と……。教師には暇なんか存在しないぞ、睡眠すら削られる、と、安易に教職を選ぼうとする生徒に言ってやりたい気持ちでいっぱいだった。まさしく7年前の自分にも。