水槽
実験室の前でぼんやりと佇んだ生徒の後ろ姿を見止めて、名取は足を止めかけた。珍しい事もあるもんだと、反射的に思う。
用もなく休み時間に特別教室に来る生徒は少ない。授業か実験のやり残しか、小用で残った教師を探しにくる位か。教師自身も各教科の準備室か職員室の方が捉まる。つまりは授業中以外、あまり必要とされない空間なのだ。ここは。
生物部も存在してはいたが、今年の春に新入部員が入らずに5人以下となり、あえなく同好会へとランクダウンした。どっちみち名取は名前だけの顧問として関与してはいるが、生徒たちも特に教員の手を借りるような活動はせず、気ままに週2回集まっては雑談をして放課後を費やしている。文化祭は他の同好会と協同で教室一つを使い、パネル展示と小冊子で体裁を整えてみせた。悪くはない。
しかしその女子生徒は部員ではない様子だった。後は自分が受け持った生徒の後ろ姿を全て覚えているかというと、甚だ怪しいものではある。
数瞬考え、それでもサンダル履きの足元のリズムを崩す事は無く、名取は階段を昇り切る。振り返った女子生徒と目が合った。
「名取先生」
軽く首を傾げて呼びかけてきた顔を記憶の中で照合する。昨年度生物?の授業で教えた覚えがある。成績が良く、弁論の切れ味も鋭い。しかし他人との距離は遠く置く。そんな印象で覚えていた。確か名前は。
「杉沢?」
口に出すと確証が増した。杉沢凛、だ。職員室で出席の話題が持ち上がった時に、読めない苗字や凝った名前の生徒を真っ先に覚えてしまうのだと言っていた教員がいて、その中に彼女の名前もあった。
イメージにぴったり。名は体を現す。苗字が普通だからこそ釣り合いが取れてる。そう評価して妙に楽しそうだった女性教員たちに、その場にいた面々もそれぞれに同意した。確かに。
今もまさにそんな様子だった。ぱきりと着こなした夏服の白いシャツも、緩める事のない胸元のリボンも、紺のプリーツスカートも、しかし、廊下全面の大きな窓から燦々と差し込む真夏の陽光に輪郭をぼやかされてしまう。
逆行を受けて名取は顔を顰めた。睡眠不足気味の眼球と視神経には厳しい。反射的に欠伸が漏れる。ふ、と軽く息を漏らして、凛が笑った。
「徹夜明けですか」
「さすがにそこまでの体力はもう無いな。20代前半までなら、それも出来ない話じゃなかったんだが」
4時間睡眠だよ。言いながら凛の横に立つ。しかしそう問いかけてきた凛の方が睡眠を必要としているのではないかと思える程、表情に生気が足りない。ぎらぎらと窓ガラス越しに差し込む陽光の白さに負けて、能面のように見える。
彼女の前には窓際に横付けした古く錆びた鉄製の腰高のラック、その上に鎮座するのは大きな水槽。業者が大の大人4人で抱えて搬入した程のサイズで、古参の生物教師が経費を私用して趣味で購入してしまったという、ある意味曰く付きの代物だ。
それがいつの間にか実験室の内の備品室に移され、そこから何故か廊下に追い遣られ、最終的にはラックの上で水を湛えている。
数年前の学園祭で金魚すくいの露店をしたクラスがあった。掬われなかった売れ残りの運のいい金魚の、そのまた生き残りが、鬱蒼と繁茂した水草の中からちらりと赤い姿を覗かせる。とんぼのように一箇所で静かに停滞していたかと思うと急激に方向を変えて泳ぎ去るのは、数年前に生物部の生徒が郊外学習と称して遠足に行った河で捕獲してきためだかだ。壁面を這い回るタニシは、水草を株ごと購入した時に幼生が着いて来たらしい。そのまま大きく育ち、勝手に増え、何世代もが共存している。
「凄いですね」
ため息と共に吐き出された彼女の言葉の主語は容易に想像がつく。目前に広がる小さなコミュニティー。
「これ、洗えるんですか」
「いや。水が減ったら足すだけだな。時々魚に餌を撒いてやって、それだけだ。とても洗えたもんじゃない。考えただけで大仕事だろ」
「そうですよね」
しきりと何度も頷くと、凛の真っ直ぐな髪が揺れた。校則の緩いこの学校にあっても、彼女は髪も染めなければ化粧もしていない。ピアスの類とも無縁だった。それでいて身形に無頓着なわけでは無く整えていたから、生活指導の教員としても扱い易いだろう事は容易に想像出来る。
「魚どもやタニシの排泄物は微生物が分解する。その分解したものは水草の肥やしになるわけだ。水草はこの環境でせっせと光合成をして酸素を作る。その酸素を吸って魚たちは生きてる。魚が死んでも特に死骸を取り出した覚えはないよ。いつの間にかあの水草のジャングルに消えてる」
教室で教える口調になっている。自覚している自分に気づいて言葉を切ると、やはり授業中の表情から戻って来た凛は軽く頷いた。
「食物連鎖ですよね。ちょっと違うけど」
「ああ、ちょっと違うけどな。でもこの世界はこれで成立してる。魚にとっちゃ天敵がいないのがおかしいが、ここにざりがにでも入れてみろ、あっと言う間に『そして誰もいなくなった』だ」
くすくすと笑い声を漏らして、凛は水槽に一歩近寄った。水槽の外壁にぺたりと手のひらを押し当てて名取を見上げる。
「先生、寝不足の原因は?」
「お前さんたちのテストの採点だよ。……とは言っても、杉沢は今年は生物は取ってないな」
「去年取りました。でも先生のテストって、記述や論述が多くて大変な目にあった覚えがありますよ」
「だろうな。マルバツや選択方式じゃ、出し甲斐も採点し甲斐もない」
「だから睡眠不足になるんですよ?」
「当然なんじゃないか。教師ってのはそれが仕事だ」
しれっと言うと、凛は何か言いたそうに口を尖らせた。なんだ、と、目で促す。
「名取先生は、別に先生になりたくて先生になったんじゃないんだと思ってました」
「は?」
図らずも頓狂な声が出た。ある意味図星、だがどうしてこの凛がそんな事を言い当てる。しかも前後の会話との脈絡が見当たらない。
「自分の研究のために使える時間が欲しいからだって。腰掛け教師だって言ってる人もいました」
「待て。結構失礼な言い草だぞ、杉沢」
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げられて、ほんの僅かだが湧き上がったはずの怒りが雲散霧消する。悪気が無さ過ぎる。
「誰が言ってる、そんな事。生徒の間じゃ有名な陰口か」
「一部分で有名だと思います。でも先生、熱血教師には見えないから、それ聞いた子はみんな納得してて」
「出所は誰だ?」
「夏川先生」
名取は頭を抱えたくなった。よっぽど彼の方が教員としての心構えから遠いところに居るのではないかと思う程、授業中に生徒に課題を与えて自分は画材と格闘している、そんな美術教員。相手は幾つか年上だがあちらが気安いのも手伝って、憎まれ口の応酬は毎週の教職員会議の申し送りの名物とされている。それだけ気が合う、という事なのだろうが。
「だから偉いよな、って夏川先生は言ってました。美術は選択だし、長期休暇の時ぐらいしか課題出さなくていいし、って。それに引き換え進路に関わる教科の先生は手の抜き方が難しいのにって」
用もなく休み時間に特別教室に来る生徒は少ない。授業か実験のやり残しか、小用で残った教師を探しにくる位か。教師自身も各教科の準備室か職員室の方が捉まる。つまりは授業中以外、あまり必要とされない空間なのだ。ここは。
生物部も存在してはいたが、今年の春に新入部員が入らずに5人以下となり、あえなく同好会へとランクダウンした。どっちみち名取は名前だけの顧問として関与してはいるが、生徒たちも特に教員の手を借りるような活動はせず、気ままに週2回集まっては雑談をして放課後を費やしている。文化祭は他の同好会と協同で教室一つを使い、パネル展示と小冊子で体裁を整えてみせた。悪くはない。
しかしその女子生徒は部員ではない様子だった。後は自分が受け持った生徒の後ろ姿を全て覚えているかというと、甚だ怪しいものではある。
数瞬考え、それでもサンダル履きの足元のリズムを崩す事は無く、名取は階段を昇り切る。振り返った女子生徒と目が合った。
「名取先生」
軽く首を傾げて呼びかけてきた顔を記憶の中で照合する。昨年度生物?の授業で教えた覚えがある。成績が良く、弁論の切れ味も鋭い。しかし他人との距離は遠く置く。そんな印象で覚えていた。確か名前は。
「杉沢?」
口に出すと確証が増した。杉沢凛、だ。職員室で出席の話題が持ち上がった時に、読めない苗字や凝った名前の生徒を真っ先に覚えてしまうのだと言っていた教員がいて、その中に彼女の名前もあった。
イメージにぴったり。名は体を現す。苗字が普通だからこそ釣り合いが取れてる。そう評価して妙に楽しそうだった女性教員たちに、その場にいた面々もそれぞれに同意した。確かに。
今もまさにそんな様子だった。ぱきりと着こなした夏服の白いシャツも、緩める事のない胸元のリボンも、紺のプリーツスカートも、しかし、廊下全面の大きな窓から燦々と差し込む真夏の陽光に輪郭をぼやかされてしまう。
逆行を受けて名取は顔を顰めた。睡眠不足気味の眼球と視神経には厳しい。反射的に欠伸が漏れる。ふ、と軽く息を漏らして、凛が笑った。
「徹夜明けですか」
「さすがにそこまでの体力はもう無いな。20代前半までなら、それも出来ない話じゃなかったんだが」
4時間睡眠だよ。言いながら凛の横に立つ。しかしそう問いかけてきた凛の方が睡眠を必要としているのではないかと思える程、表情に生気が足りない。ぎらぎらと窓ガラス越しに差し込む陽光の白さに負けて、能面のように見える。
彼女の前には窓際に横付けした古く錆びた鉄製の腰高のラック、その上に鎮座するのは大きな水槽。業者が大の大人4人で抱えて搬入した程のサイズで、古参の生物教師が経費を私用して趣味で購入してしまったという、ある意味曰く付きの代物だ。
それがいつの間にか実験室の内の備品室に移され、そこから何故か廊下に追い遣られ、最終的にはラックの上で水を湛えている。
数年前の学園祭で金魚すくいの露店をしたクラスがあった。掬われなかった売れ残りの運のいい金魚の、そのまた生き残りが、鬱蒼と繁茂した水草の中からちらりと赤い姿を覗かせる。とんぼのように一箇所で静かに停滞していたかと思うと急激に方向を変えて泳ぎ去るのは、数年前に生物部の生徒が郊外学習と称して遠足に行った河で捕獲してきためだかだ。壁面を這い回るタニシは、水草を株ごと購入した時に幼生が着いて来たらしい。そのまま大きく育ち、勝手に増え、何世代もが共存している。
「凄いですね」
ため息と共に吐き出された彼女の言葉の主語は容易に想像がつく。目前に広がる小さなコミュニティー。
「これ、洗えるんですか」
「いや。水が減ったら足すだけだな。時々魚に餌を撒いてやって、それだけだ。とても洗えたもんじゃない。考えただけで大仕事だろ」
「そうですよね」
しきりと何度も頷くと、凛の真っ直ぐな髪が揺れた。校則の緩いこの学校にあっても、彼女は髪も染めなければ化粧もしていない。ピアスの類とも無縁だった。それでいて身形に無頓着なわけでは無く整えていたから、生活指導の教員としても扱い易いだろう事は容易に想像出来る。
「魚どもやタニシの排泄物は微生物が分解する。その分解したものは水草の肥やしになるわけだ。水草はこの環境でせっせと光合成をして酸素を作る。その酸素を吸って魚たちは生きてる。魚が死んでも特に死骸を取り出した覚えはないよ。いつの間にかあの水草のジャングルに消えてる」
教室で教える口調になっている。自覚している自分に気づいて言葉を切ると、やはり授業中の表情から戻って来た凛は軽く頷いた。
「食物連鎖ですよね。ちょっと違うけど」
「ああ、ちょっと違うけどな。でもこの世界はこれで成立してる。魚にとっちゃ天敵がいないのがおかしいが、ここにざりがにでも入れてみろ、あっと言う間に『そして誰もいなくなった』だ」
くすくすと笑い声を漏らして、凛は水槽に一歩近寄った。水槽の外壁にぺたりと手のひらを押し当てて名取を見上げる。
「先生、寝不足の原因は?」
「お前さんたちのテストの採点だよ。……とは言っても、杉沢は今年は生物は取ってないな」
「去年取りました。でも先生のテストって、記述や論述が多くて大変な目にあった覚えがありますよ」
「だろうな。マルバツや選択方式じゃ、出し甲斐も採点し甲斐もない」
「だから睡眠不足になるんですよ?」
「当然なんじゃないか。教師ってのはそれが仕事だ」
しれっと言うと、凛は何か言いたそうに口を尖らせた。なんだ、と、目で促す。
「名取先生は、別に先生になりたくて先生になったんじゃないんだと思ってました」
「は?」
図らずも頓狂な声が出た。ある意味図星、だがどうしてこの凛がそんな事を言い当てる。しかも前後の会話との脈絡が見当たらない。
「自分の研究のために使える時間が欲しいからだって。腰掛け教師だって言ってる人もいました」
「待て。結構失礼な言い草だぞ、杉沢」
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げられて、ほんの僅かだが湧き上がったはずの怒りが雲散霧消する。悪気が無さ過ぎる。
「誰が言ってる、そんな事。生徒の間じゃ有名な陰口か」
「一部分で有名だと思います。でも先生、熱血教師には見えないから、それ聞いた子はみんな納得してて」
「出所は誰だ?」
「夏川先生」
名取は頭を抱えたくなった。よっぽど彼の方が教員としての心構えから遠いところに居るのではないかと思う程、授業中に生徒に課題を与えて自分は画材と格闘している、そんな美術教員。相手は幾つか年上だがあちらが気安いのも手伝って、憎まれ口の応酬は毎週の教職員会議の申し送りの名物とされている。それだけ気が合う、という事なのだろうが。
「だから偉いよな、って夏川先生は言ってました。美術は選択だし、長期休暇の時ぐらいしか課題出さなくていいし、って。それに引き換え進路に関わる教科の先生は手の抜き方が難しいのにって」