仏葬花
「会社の人よ」ジイドに説明する。「お疲れ様です。前の、お話の件でしょうか」
相変わらず薄い笑みを浮かべていた。
「おはようございます。用事はまあそうなんですが」
「それなら、今から出社ですので終わってからで」
シヨウの言葉をやんわりと止め、彼は続けた。
「お話の件は、貴女自身に用事があるのではなく、正確には貴女の見た昔の風景ですね。でもその話はまた今度、きちんとお伺いします。そこいらのノス・フォールンでは記憶は探れませんから」
そうして構える。
「今日は、私個人が、貴女自身に用事があります。そうですね、話を訊くことが出来る状態ならば、多少どうなっていても問題ないですよね」
暗器が降ってくる。最初は足元。次は太腿へ、でも躱す。
一気に抜剣する。「ちょっ 危な!!」など後ろからジイドの変な声がした。
しかしどうにも真剣さに欠ける。本気でないのはわかっていたが。
狙うのは執拗に後ろのノス・フォールンだ。
「ちょっと! 彼は関係ないでしょう」
「あなたに関係がある時点で無関係ではないですよ。それを弱みにされる場合がある、というのが人間関係です」
彼は笑う。ジイドのように。でも違う。明らかに質が違う。
彼は。
自分と同じ側だ。
「逃げて!」
わかっても体がついてくるかは別だ。退路に正確に剣が来る。
「速すぎ! 無理だって! ――右!」
右腕を狙ってくる。これも躱せる。
ジイドを見る。彼は、目を閉じている。
「見るな!」
ぱっと目を開け、一瞬、呆けた。
「行って! 守りきれない!」
近づこうとしても黒ずくめの男は一定の距離を開ける。こちらから仕掛けられない。さてどう出たものかと本気になりかけた頃だった。
「あ、時間です。そろそろ出勤しなくては」
突如無手になる。暗器をそこかしこに仕舞う。
「楽しかったついでに」最初となんら変わらない笑顔だ。「この辺りがこうなのは、私の所為ではありませんよ。そういう所を選んだのは認めますが」
彼が背後を指す。何を言っているのか、その意味を見たかったが油断ならない。まだ目は逸らせなかった。「あなたなら懐かしいかもしれませんね。ではまた」
本当に完全に色々な気配が消えるまで、シヨウは神経を張り詰めていた。
だから気が付かなかった。今までは自分以外に気を払わなくて良かった。
後ろのノス・フォールンが蹲っている。
瞬間的に恐慌に陥るが、すぐに冷静になる。
何かをした動作など無かった、はず。
それでも、後ろに誰かいる、という状況に慣れていない彼女は色々考える。
死んでしまって家族や親類に一生恨まれ続けるのと、不自由な体で生きることを選んだ本人と家族から一生恨まれるのと、どちらがましだろうか、等。
考えながら彼の様子を看る。
「どうしたの、ジード」
揺さぶっても頭を振るだけ。耳を塞いでいるだけ。抑える手を頑なに解こうとしない。
「うるさい、う、たが」
「歌? 何も? 流れていないけど?」
辺りは静かなものだった。離れたところに民家が数件見えるだけで、何もない場所だった。
「鳥がいない」
「え」
ふいにかけられた声で違和感の正体に気付く。
機械が動作しているとき特有の音。
違和感でもなんでもない、と処理されるだけの環境に居たこともあった。
懐かしい。
彼は耳を抑えているのではない。頭だ。
昔ちょっと流行った、意図が少し度の過ぎたおもちゃ。
ノス・フォールンが近くに居るという事実だけで、体調を崩す人間もいるほど。そんなリクエストに応える歪んだ時代があった。一般家庭はまだだが、最近は工場や病院といったところに電力が戻ってきていた。
「ちょっと、気をしっかりして。 聴くな」彼の腕を掴む。「見るな!」
でも弾かれてしまう。同時に「へぶっ」とかいう、変な声が出てしまった。
ノス・フォールンの脳の能力をしばしば「見る」という表現を使う。それは、相手の言わんとしていることが見た瞬間にわかる場合があるからだ。
シヨウには全く聴こえない。ジイドだけ。ノス・フォールンだけ。
落ち着け。落ち着け。
頭を抱えるジイドを無理矢理掴んで、自分の額に当てる。
『 』
びくっと震えてジイドが勢いよく顔を上げる。
「気が付いた?」
やっと焦点が合って、長い前髪の間から目がこちらを見ている。
「あ、れ・・・シヨウ?」
「こっちへ」
さすがに山の中には無いだろう。ふらつく彼の手を引いてどんどん進む。座れそうな幹がある樹を見付け休む。
ジイドを見る。シヨウはそれほど疲れていない。
「大丈夫?」
俯いて息を切らしている。
「それ・・・俺がやった?」
彼がシヨウの顔を指す。
「ごめんねえ、女の子の顔を」
シヨウは目を細める。こんなときに他を考えることができるとは。自分となんという違いだろう。同じ人間でこうも違うなんて。
「ジード。もう、心は見ないで」
「それは無理」
ノス・フォールンにとって呼吸や瞬きに等しいことを誰もが知っている。
彼の手を握る力を強める。
「だから、本当に、もう・・・」
「そこまで、言うなら交換条件・・・自殺幇助なんてやめろ」
考えたが交換になっていない。そう指摘しようとした。
「あと・・・アレシュトルが死んだ」
「え」
「だから・・・」
そう言いながら体が揺れている。疲れているときや睡眠不足のときのそれに似ている。自分では気が付いていないかもしれない。
言い終わらない内に彼は横に落ちていく。
これだから俗に言う「良い人」は短命なのだ。他人の為に苦心し時間や体力を使うことが出来る。だから病気になったり寿命が短くなってしまうのではないか。
突きつけられた事実に心が重くなる。
「シヨウはノス・フォールンに甘い傾向が見受けられる」
「それは面白い見解だわ。接するのがノスばかりだとそうなるわね」
シヨウは力無く笑う。
「これからどうする? このまま夜まで起きない可能性は充分ある。ノス・フォールンは睡眠時間を特に摂らなくてはならない」
「それは仕方ない・・・」
彼の視線がジイドに向けられた。シヨウも振り向く。
「大丈夫?」
薄く目を開けた彼は、何か言いたげだった。
次の言葉を待つ。しかし出てくる気配は消えた。
ジイドの目に掌を置く。念じる。少しでも負担が小さくなればいいが。
彼の傍らに剣を置く。持っている長い方だ。勤務時は必要がないのに、今日は置いてくるのを忘れた。そんな失態を今は感謝する。
「レヴィネクス、守っててくれる?」
「仕事に行くのか」
「うん」
「こんなことになっているのに? お前の所為なのに?」
決心が少し揺らぐ。他人が存在しているというだけで、こんな事に逡巡するのか、と発見する。
「ええ。勤務先の人に、私の事情は関係がない・・・前に話したことがあったね」
「そういう帰結だった。しかし守ることは出来ない。お前もよく知っているだろう?」
その物言いに笑ってしまう。彼はいつも事実を言う。
「一緒にいてくれるだけでいい。頼める?」
小さく頷くのを見届ける。
「勤務が終わった後、セリエにきちんと断ってくるよ」
恐らく、彼と自分は性質が似ている。
でも決定的に違うものがある。
自分は今日も生きている。きっと明日も。
彼はその本能を強大な理性で押さえ付け、あの樹海にいた。