無言歌
昔に比べてゲイの認知度が上がったとは言え、ヘテロ(異性愛者)の方が圧倒的に多く、世間的にはまだまだマイノリティだ。好みのタイプだからと言って、相手がゲイである可能性は極めて低い。その上、簡単にカミングアウト出来るほど世の中は寛容ではないし、確実に相手を見つけるには、それなりの場所で出会いを求める方が手っ取り早かった。それは吉野もわかっている。ソノ気のない人間に恋をして、想いを告げないまま失恋したことは一度や二度ではなく、その度に虚しい思いをした。だから『一般社会』には恋愛を持ち込まないように努めてきた。
しかし努力など恋情の前にはひとたまりもない。「これはダメだ」「あれは望みがない」と思うほど、惹かれてしまうのが恋なのだろう。今までは『子育て』が歯止めになっていただけ。父親業から解放されて一人の男に戻った時、それは吉野の心に滑り込んできた――関目慎司と言う形になって。
――兄妹だと、好みも似るのかな
同じ職場で顔を合わせる毎日が、吉野の中で彼の存在を大きくしていった。十才近くも年下の自分の部下に、忘れていた感情が甦る。ただこの恋は成就しないことはわかっていた。休みになると関目は菫を迎えにくるようになったからだ。
ヘテロな上に妹の恋人。再来月には結婚。これ以上の失恋の仕方があるだろうか?
失恋して、想いは殉じたと思っていた。なのに今夜、未練がましく燻ぶっていたことを思い知る。
朝になって帰宅すれば、このわだかまりも消えるだろう。午後には関目が菫を迎えに来る。アルコールが多少残ったその様子に彼女は眉を顰めて婚約者を叱り、兄に文句の一つも言うに違いない。そんな妹を嗜め、吉野は二人を披露宴の打ち合わせへと送り出すのだ。
いつもの日常。吉野の想いは再び心の奥に仕舞われ、そして二ヵ月後には、目の当たりにする現実によって永遠に封印される。
しかし今はまだ、頬には関目の体温が、鼻腔には彼の匂いが残り、甦った想いが吉野の身体中を支配していた。
――早く、朝になればいいのに…
立ち上がり、細いはめ込み式の窓に近づく。屋内の明かりで、窓は鏡のように吉野の姿を映していた。
ガラスに額をつけて外を見る。裸眼でぼやける目を凝らし朝の気配を探すが、漆黒の闇が続くばかりで見つけられなかった。あたりまえだ、まだ午前二時にもなっていない。