無言歌
広い胸の緩慢な動きが心地いい。凪いだ海にゆらゆら浮かぶ小船になった気分だった。このまま、彼の腕の中で眠ってしまえたら…と吉野の瞼は次第に重くなる。
「菫ちゃん」
関目の声が耳に入った。
微睡の淵にいた吉野は「ハッ」と目を開ける。関目が起きた気配はなく、寝言なのだとわかった。身体に広がっていた甘やかな熱が、急激に引いていくのを吉野は感じた。
――何をしてるんだ、俺は?!
関目が起きるのも構わず、身をよじる。先ほどより幾分緩んだ腕から何とか抜け出せた。その際、眼鏡が外れたが、吉野が取ろうとするよりも先に、うつ伏せの体勢に寝返りを打った彼の身体がそれを下敷きにする。軽量重視の華奢なフレームとプラスチック・レンズの眼鏡だから怪我をする心配はないが、それよりも何よりも、感情に流されそうになった自分自身に驚いて、眼鏡のことなど考える余裕もなく、吉野は慌てて部屋を出た。
自動販売機コーナーの長椅子に吉野は座っていた。頭を冷やすつもりで買った冷たい缶コーヒーが、開けられることなく手の中にある。手の熱を吸って、すっかり温くなっていた。
吉野が四十路を間近にしている今まで、独身を通しているのは菫のことがあってのことだが、それは上司からの見合いの話を断るちょうど良い口実でもあった。吉野自身、恋愛の対象が異性ではなかったからだ。もちろん菫を嫁に出すまでは特定の相手を作ることはしないつもりだったし、息抜きで関係を持つことも控えてきた。実際、仕事と『子育て』を両立するのはかなり大変で、暇もなかったと言えば言える。
菫が大学を卒業して就職し、自分の手から離れるのもそう遠くないと思った頃、関目が東海支社から転勤してきた。
大柄でほどよく筋肉のついた身体はスーツがよく似合っていた。気さくで社交的な性格だが、度が過ぎる馴れ馴れしさはなく、体育会系出身の小ざっぱりとした身なりと礼儀正しさが好ましい。仕事に対してモチベーションが高く、前任地ではトップの営業成績を残していると聞いていたが、きっと横浜支社でもそうなるだろうことは、彼の仕事ぶりを見れば推測できた。