無言歌
吉野家の両親は既に亡い。吉野が就職したばかりの二十三才の夏に、事故で一度に失ったのだ。菫はまだ九才だった。それから十六年、吉野が親代わりとなって妹を育てた。その彼女の結婚話に、一抹の寂しさを覚えるのは仕方がないことだったが、ただ相手が関目だと言うことが、更に吉野の気持ちを複雑にした。
「うーん」
と関目は寝返りを打ち、またすぐにもとの大の字に戻った。シャツのカラーや、ベルトをしたズボンが窮屈なのかも知れない。眉間に一瞬、皺を寄せ、無意識にベルトを緩める。次にシャツのボタンを外しにかかったが、三つ目に指をかけたところで彼の動きは止まった。
その様子をぼんやり見ていた吉野は苦笑して腰を上げた。せめてシャツぐらい脱がせてやるかと、ボタンに手を伸ばした。
一つ、また一つとボタンを外す。
関目の広い胸はゆっくりとした呼吸に合わせて大きく上下した。ボタンを外す吉野の指は、見惚れるように動きが鈍る――こんなに、広い胸だったのかと。
全てのボタンを外し終えた時、吉野は彼の鳩尾の辺りに躊躇いがちに右手を乗せた。アンダーシャツを通して彼の体温を知る。こうして触れられるのは、最初で最後かも知れない。「馬鹿なことをやっている」と自覚はあるものの、手を離すことは出来なかった。
手のひらが熱い。胸と手は互いの体温が重なってしっとりと汗ばむ。それを感じて吉野がようやく関目の胸から手を離したのと、大の字に広げられていた彼の腕が身体に巻きついたのは同時だった。
――え?!
つい今しがたまで触れていた胸が目の前に迫ったかと思うと、吉野の身体は「あっ」と言う間もなしに抱きこまれる。眼鏡が鼻からズレ、細いフレームが不自然に歪んだ。
何とか逃れようと吉野は身をよじったが、肩に回された関目の長い腕には逃すまいとするかのように力が入り逆効果となった。相手は意識がないだけに始末が悪い。しばらくすれば腕も緩むだろう。吉野は仕方なく、そのまま身体を預けた。
微かに残るコロンと煙草の匂いが、関目の胸であることを実感させる。吉野の頬の下に彼の鳩尾があり、自分の手が残した『熱』を押し付けられた。その『熱』はたちまち吉野の身体全体に広がり、連動して心拍数も上がる。「落ち着け、落ち着け」と心の中で唱えながら深呼吸を繰り返した。徐々に平常に戻り始めた吉野の拍動は、関目の呼吸にシンクロする。