あなたの空を飛びたい
「いえ、ごめんなさい。十歳のときに父を亡くしました。顔がふと忘れることがあります。とても、大きな手をしていて、恐そうな顔のどこかに微笑みがありました。父はしがない中学の教員でしたか、仕事に誇りを持っていました」
仕事に誇り? 幸夫は思わず心のなかでそう呟いた。仕事などただ単に手段に過ぎなかった。出世するための手段でしかなかった。おのれに誇りを持っていたが、仕事に誇りはあっただろうか?
「だから、山田さんを見ていると、父を想像してしまいます」
幸夫は嬉しいような悲しいような不思議な気持ちになった。父? そんな歳だなと妙に納得してしまう反面、そんな歳ではないという反発する気持ちもある。
じっと眺める幸夫の視線に気づいた奈津子は、「山田さんはとても正直な人。まるで、子どものように素直に気持ちが顔に表れる……今、怒っているでしょう?」
「そんなことない」
「嘘……前に付き合っていた人もそうだった。顔にすぐに出てしまう。男の人って、みんなそうなのかしら?」
「女ほどずる賢くないといった方が正しいかもしれない。憎しみの心を抱きながら、微笑んで握手はできない」
「女はずるずる賢いですか?」
「みな、そうだというわけではないが……。今日は何だかからみますね」と言葉を濁らした。
「ごめんなさい。今日、母は喧嘩したの。母は女なのに、とても男尊女卑のものの考え方をするの。女の幸せは結婚だって。私は結婚しないと言い張って喧嘩したの」
「結婚することが幸せに繋がるかどうかは別として、寂しさを紛らわしてくれる一つの有効な手段に違いない。人は孤独では生きていけないのです」
「山田さんは寂しいですか?」
「正直言って、とても寂しいですよ。家族がいたときは、一人になりたいと思ったことは何度かあったのに。人間とは実に我が儘な動物ですよ。もっとも自分だけかもしれないが……」と窓に映る自分に語りかけるように言った。
時計は休むことなく進み、すっかりと夜になった。
やがて奈津子が独白のように天文学の魅力を語った。
「ホーキングという物理学者を知っています?」
「気のせいでなければ、名前だけはどこかで聞いたことがあるような気がします」
奈津子は微笑んだ。
「確か、彼だったと思うけど、“人類は今後千年以内に滅亡する”と言ったの」
「千年先の話ですか。あまりにも遠すぎて想像もできませんね。僕なんか、一年後もずいぶんと先ですよ」
「どうしてだか分かります?」
「隕石でも降ってくるんですか?」
奈津子は得意そうに「違うの。彼は地球が温暖化して、暑くなって人が住めなくなると言っているの。人類が滅亡を回避するには、別の惑星に移住するしかないと主張しているの」
そんな話をする奈津子の瞳は嬉々と輝いていた。
突然、奈津子の話を幸夫が遮る。
「あなたに出会うまで、私は喪失した過去ばかりを見て、悔いていた。でも、生きることとは未来を見ることなのかもしれない。どんなに大切でも、過去は棄てるものなのだということに気づいた」
幸夫はじっと奈津子を見ていた。奈津子は沈黙したままだ。
「不思議なことですが、……笑わないで下さい」
奈津子はゆっくりうなずいた。
「私はあなたに恋をしました」
ほんの一瞬ではあったが、奈津子は笑った。
「冗談だとあなたは思っているでしょう? でも、本気ですよ」
「冗談かどうかは分かりませんが、余りにも唐突過ぎますわ」と困惑した色を隠せなかった。だが、奈津子もどこかに幸夫に惹かれるものを感じていた。
『そうだ、余りにも唐突すぎる! だが、その気持ちは偽りのないものだ。決して女に飢えていたわけではない』と自分自身に幸夫は言い聞かせた。
「失礼なことは充分承知しています」
奈津子はじっと見た。
「その瞳に見つめられて、私の心は二つに裂かれてしまいました……」と呟いた。
「それは誰のセリフ?」
「シェークスピア、たぶんハムレット」
突然、奈津子は「失礼します」と言って帰ってしまった。
それから、数日後、一通の手紙が幸夫のもとに来た。それは奈津子からだった。手紙にはもう二度と会えないと淡々と書いてあった。何の理由も書いてない。居ても立ってもいられず、彼女の家に電話した。すると、落ち着いた声をした女性が、
「奈津子は北海道に行きました」
「北海道のどこでしょう?」
「たぶん釧路へ。失礼ですが、貴方様はもしや山田幸夫さんでしょうか?」
幸夫はそれを聞くとき胸がなぜか高鳴った。そして、すぐに受話器を置いた。こんなことは今までになかったことだ。
壁に掛かった家族の写真が幸夫の目に映った。彼と寄り添うに妻がいる。そして、二人の前には五歳になった子どもがいる。事故に遭う前の年の旅行のときに撮った写真であった。その写真を眺めているうちに、人生にやり直しは本当にきくのであろうか、と自問した。それは考えれば考えるほど分からなくなってきた。ひとつ四十五という年齢のせいであった。交通事故の後、思い出を引きずって生きるという諦めにも考えがあったからである。だが、今はそうではない。奈津子への思いがある。恋と呼んでもいいようなある種の熱い思い、それが生へ駆り立てる。そうだ、やり直さなければいけない。そう結論づけた時、写真の中の妻と子供に向かってもう一度人生をやり直すと宣言し、すぐに飛行機の予約をした。翌日の朝には飛行機に乗っていた。
そこは湿原の側の丘だった。奈津子は夏服で立っていた。風が少しあった。奈津子は東京にいた時に切ったのだろうか、ショートヘアをしていた。その分、大人っぽく見えた。
「どうしてここへの?」と奈津子が言った。
その表情は期待に反してどこか冷たいものがあった。
「君こそどうしてここへ?」
「どうしてかしら、ふと風の音を聞きたくなって来たの」
「風の音?」
「風って、不思議なの。本当に不思議よ」
「どんな風に?」
風が少し強く吹いてきた。奈津子は、スカートの裾が時折激しく揺れるので手で抑えた。
突然、奈津子は笑みを浮かべた。
「何かおかしい?」と少しむっとした表情で幸夫は聞いた。
「何も」と空を見た。空はすでに夜を孕んでいた。高いところでは夜特有の漆黒の色をみせていた。
「何もおかしくないのに笑うはずかない」
奈津子は視線をそらしたままであった。
「私は何もなかったように別れを告げたつもりなのに、……そのことを思い出したら急におかしくなって」
「別れを告げる? 何のため? 私が邪魔なのですか?」
奈津子は首をふり、「いいえ、とんでもないわ」
「じゃ、なぜ? 訳を聞かせてください」
「……帰りましょう」
「どこへ? 東京へ?」
「幾ら何でもこんな時間には帰れないわ」
「それもそうね」
「泊まる所はとってあります?」
「いいえ」
「まあ、随分無謀ね。でも、あの旅館はもう一人くらい泊まれるかもしれない」
「幽霊の出そうなあの旅館?」
「最近、太った猫が住みついた」
「どんな猫ですか?」
「とても図々しい猫……さあ、行きましょう」
幸夫も同じ旅館に泊まった。しばらくして、奈津子の部屋をたずねた。奈津子は浴衣姿になっていた。幸夫の目には、涼しげに窓辺の藤椅子に座った浴衣の奈津子が妙に色っぽく映った。
作品名:あなたの空を飛びたい 作家名:楡井英夫