あなたの空を飛びたい
奈津子は独り言のように、「もうすぐ夏ですね」と呟いた。
幸夫は黙っていた。
「夏になると、楽しい時の思い出がまるで昨日のように思い出すの。ほんの少し手を伸ばせばそこにあるような不思議な時間を思い出すの……」
「どんな夏ですか?」
「聞きたいですか?」と子どもっぽい目で幸夫を見た。何とも不思議な思いが幸夫の脳裡を過った。子どものような奈津子、おとなの色気を持つ奈津子……どう捉えたらいいのか?
「暑い夏、ひとりで遊んでいた時、突然の夕立……」
奈津子が幸夫を見ると、瞼を閉じていた。
「激しい雨がまるで天のバケツを引っ繰り返したように降ってきた」
「どこでの話?」
「忘れたわ……」
「忘れた…でも、近くに大きな楠木があった。天に突き出したような大きな傘、緑色した大きな傘、蝉の声が聞こえたわ。夏になるとそのことを思い出すの」
話を止めて、奈津子は暗闇の外を見た。静謐とした暗闇のなかで何かが光った。奈津子は軽い悲鳴をあげた。どうしたのか尋ねると、何でもないと答えた。
「何でもない、何でもないわ」と呪文のように繰り返した。
子どもの頃のことを話すべきなかった、と奈津子は後悔した。ふと、恐ろしい思いをした遠い昔の記憶が、不思議な光とともに蘇ったのである。その恐ろしい思い出の扉を開けてしまったような後悔に襲われたのである。
「どうしたの?」
「何が?」
「顔が青ざめている」
窓に映った顔を奈津子は見た。確かにそこには、青ざめた自分がいた。
「恐いのかい?」とそっと、それは極めて自然に幸夫の手が奈津子の頬を撫ぜた。
「外で何かが光ったの」
幸夫は外を見た。が、折しも激しく降る雨で一寸先さえ見えない状態であった。
「何も見えないよ」
「そう……」とどことなく虚ろな返事をした。
風が出てきた。電灯が時折、点滅し、やがて暗闇に包まれた。幸夫は少しも慌てずにライターをつけた。暗闇の中で脅える奈津子の顔が鮮やかに浮かびあがった。
「恐いのかい?」
奈津子はうなずいた。幸夫は近寄って肩を抱き寄せると、奈津子は身を任せた。緩やかにその荷重を幸夫は感じた。湯上がりの仄かな匂いが鼻をついた。それが、自然と幸夫の心を刺激した。
暗闇、窓を叩く雨足、そして、甘い仄かな湯上がりの匂い、全てがひとつのことを暗示しているようだった。暗示? そうだ、暗示なのだ。神の啓示なのだ。従うだけだ。幸夫は自分にそう言い聞かせた。優しく髪を撫ぜ、その唇に触れた。奈津子は少しも抵抗をしなかった。全てが予感していたかのようだ。
幸夫は奈津子が処女ではないかという、疑問が起こり、「初めてですか?」と尋ねた。
すると奈津子は呟くように、「初めてではないけど、優しくしてください」と言った。
性欲というものは、生きたいという一つの形なのだ。生きるということを感じた時、性欲は必然的なものなのだ。奈津子を抱きしめ、その唇を奪い、そして一つになるという行ため自体、さほど多くの時間を要しなかった。全てが終わり、一つになったからだがふたつに離れたとき、雨音だけが部屋の沈黙を破っていた。二人は一つの布団の中で横たわっていた。
ふと、幸夫は交通事故の後、夜を恐れていたことに気づいた。恐ろしさを忘れるために酒に走った。孤独である自分を恐れていた。それに気づいたとき、幸夫は笑った。少し、それは気違いじみた笑いだったことに気づき止めた。静かな口調で奈津子が尋ねた。
「何かおかしいことがありました?」
「いや、たいしたことじゃない。交通事故の後、ずっと孤独だったことにあらためて気づいた。それで酒におぼれてしまった。でも、今はもう、孤独ではない。ところで、なぜ、僕に黙ってここへ来たんだ」
「どうしてかしら? 自分でも分からないの」
「本当に?」
「嘘をついてもしょうがないでしょ」
「そりゃそうだ」と幸夫は妙に納得した。
その時、電気がついた。奈津子と幸夫は顔を見合わせた。すると、奈津子は布団の中に潜った。
「もう帰ってください」
「帰れ?」
「お願いだから、もう帰って」と布団の中でさらに懇願した。
幸夫は布団から出た。
「今度は黙って帰らないでください」と言って部屋を出た。
奈津子は返事をしなかった。
幸夫は自分の部屋に戻ると早々に布団の中に入って考えた。
家族の死から生きる希望を失い、酒に溺れた。ある街のパンフレットがひとり女性と巡り会わせた。そして、その交わりによって微かに生きる希望を持つことになった。交通事故はまるで遠い日の記憶のような気がしてきた。
亡き妻と子供を思い浮かべながら「分かってくれ」と呟き、やがて睡みに落ちた。
次の日のことである。旅館の主人である五十過ぎの婆さんが、一通の手紙を持ってやってきた。幸夫はまだ寝ていた。何度か呼ばれて起きると、幽霊のように無表情な顔がそこにあったので、幸夫は驚いて起きた。すると、その婆さんは、少しも表情を変えず、お隣のお嬢さんから、と意味ありげに差し出した。
「私は猫、気まぐれなの。だから、さよならは言わない。もうさがさないで」と短く記された。
「立川さんは?」と手紙を読み終えて尋ねると、
「朝早く発たれました」とつっけんどんに答えた。
「どのくらい?」
「今から追っ掛けても追いつかないくらい早く」と簡単に答えた。
幸夫は最寄りの駅まで急いで行った。
駅に入ろうとしていた奈津子を見かけ声をかけた。
すると奈津子は「後一年、待てます?」と聞いた。
「一年でも、十年でも待てますよ」と幸夫が言うと、奈津子は微笑んだ。
奈津子は深く息を吸うと、空を見上げた。
「雲の動きがとても速い。鳥が大慌て飛んでいる。この分では、嵐になるかも。……列車が来ました。もう行きます」と背を向けた。
そして、「私があなたの空を飛びたくなるまで待かしら?」と呟いた。
幸夫はゆっくりとうなずいた。奈津子は振り返らなかったが、うなずいたことを確信し、駅の中に消えた。
作品名:あなたの空を飛びたい 作家名:楡井英夫