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あなたの空を飛びたい

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「前世? いや、そんな昔じゃない」
 奈津子は「そんな昔じゃないの?」と繰り返した後、少し笑った。
そうだ、手を伸ばせばすぐそこまで思い出しかけている! すぐ近くある記憶。
「でも、思い出せない」と幸夫は頭を抱えてしゃがんだ。
「帰りましょう」
「どこに?」
「旅館へ」
「どうして?」
「もうすぐ雨が降ります。風の動きがとても早すぎます。もうすぐ、空は灰色の雲で覆われるでしょう。だから、早めに帰りましょう」
 
奈津子が予言した通り、夕方には雨になった。それも土砂降りであった。
 夕食の後、雨が降る音を聞きながら、「明日、私は帰ります」と奈津子は囁いた。
「どこへ?」と奈津子の方を見た。奈津子はそれに応えるように微笑み、「東京へ」
「東京は嫌だな。人の住むところじゃない」
「私は東京で生まれ、東京で育ちました」
「東京は人の心を蝕む」
「それは東京だけじゃないわ」
「そうだ、現代の社会の仕組みがそうなっているのかもしれない。けど、東京には潤いがないな、確かに……おかしいかい?」と奈津子の微笑みを見て尋ねた。
「おかしい……、だって、私が心のなかで思っていることを言うもの」
「そうかな、ここには緩やかな時間がある。ここに来て、そのことに気づいた」
「でも、ここでは生活ができないわ」
「君はさっき東京へ帰ろうと言っただろ。東京のどこに住んでいるかね?」
「自由が丘よ」
「奇遇だね、私も代官山のマンションだ」
「高いでしょ」
「高い、目の玉が飛び出るほど高い。三十年ローンで、あと十年もかかる。でも、払い続けても、もう誰も待っていない」
 交通事故で妻子を失うまでは、自分を待ってくれる人が必要だと考えたことはなかった。「奈津子さんと呼んでいいですか?」
「ええ、でも、どうして?」
「姓というのは何となくよそよそしくて好きになれない。かといって、名を呼ぶには、ちょっと……でも、あなたは不思議だ。まるでずっと前から知っていたような気がします」
「きっと同じような苦しみを体験したせいかもしれませんね」
「奈津子さん、東京に戻ったら、何をします?」
「大学に戻ります」
「専攻は?」
「天文学です」と微笑んだ。
「いいなあ。私も実利を求めず、夢を追えば良かった。そうすれば別の生き方が出来たかもしれない。私の家はとても貧しかった。それから逃れるために、面白くないもない経済学を学び、一流いわれる商社に入り、人一倍働いた。……そうだ、働いて、働いて、残ったのは多額のローンだけです。滑稽でしょう?」

次の日の朝はもう雨がやんでいた。
幸夫は部屋で何をするわけでもなく横になった。奈津子のことを思った。どこで出会ったような気がする。ふと脳裡を掠めるものがあった。
『そうだ、二十年前の妻の顔に似ている。いや、そっくりだ。あの頃、幸夫の妻はショートカットだったが、奈津子は長い髪をしているに過ぎない。どうして、こんな単純なことに気づかなかったのだろう!』
 幸夫は飛び起きると、隣の部屋のドアに手をかけた。鍵が掛かっていた。
「奈津子さん、奈津子さん……」と幸夫は呪文のように繰り返した。
「静かにしてください」と階下から女将の声がした。
「隣の秋川さんなら、もう部屋を出ましたよ」
「帰った?」と幸夫は聞くと、
「帰りました」と冷たい返事が帰ってきた。
 幸夫はすぐに旅館を出て街に向かって走った。何故か分からないが、ここままで終わるのは納得できなかった。彼は走り、途中でタクシーを拾い、駅に向かった。
 街の駅はまるでミニチュアの小さかった。白い帽子が目に入った。幸夫は急いで、タクシーを下りた。不思議と恥ずかしさを感じずに、奈津子に向かって走った。
「どうしたんですか?」
「それはこっちこそ聞きたい」と息を弾ませながら言った。
「これから、私は帰るの。昨日言ったように」
「すっかり忘れていました。東京ですか?」
奈津子はうなずいた。
「東京へ帰ったなら、また会えます?」
「いつでも」
「それは良かった。あなたに是非、話したいことがあるのです」
 列車が駅に滑り込もうとする汽笛が聞こえた。その音に幸夫の声が掻き乱された。
「住所、いや、電話番号を教えてください」
 奈津子はメモ帳を取り出して、電話番号を書いた。そして、その紙を切って、幸夫に手渡しすると、軽く会釈をして、列車に乗り込んだ。香水の匂いだろうか、ほんの少し甘い匂いが残った。その時、幸夫は名状しがたい欲望が生まれていることを感じた。生きたいという欲望、奈津子を愛したいという欲望……だから駅に来のだ。
 
  一週間後、幸夫は奈津子に会った。そこは東京湾に面した高層ビルの中にあるバーである。ちょうど、そこから夕日に街や海が赤く染まっていくさまを眺めることができる。
 幸夫は青いワンピース姿で現れた奈津子を迎えた。
「本当に東京で会えるなんて……」と奈津子は呟いた。
「まあ、かけてください。時間はありますか?」
「ええ、少しなら」
「少しですか?」
「ええ、うちの門限が十一時なの」
「十一時か」と時計を見て、「でも、十一時までにはたっぷりと時間はある」
「ビールがいいかね、それとも……」
 間髪を入れずに、「ウイスキー、それも水割りで」と答えた。
 幸夫はボーイを呼んで注文した。
「静かなバーですね、それにとてもきれいな光景……」
「八時からピアノの弾き当たりが始まります」
「クラシック?」
「いや、ジャズかな? 音楽は疎いので良く分からないが……」と照れた。
「学校へ行っていますか?」
「ええ、昨日から」
 ふと、奈津子は外を見た。夜の帳がまさに降りようとしている。会話がそこで途切れ沈黙した。
 あなたに会うために、私は東京に戻ってきた」
「私に会うため?」
「ええ、おかしかったら笑ってください。私は、生きることを決心したのです」
「ちっとも、おかしくはありません」
「本当に?」
「私は嘘をつきません」
幸夫は苦笑した。確かに奈津子は本当に正直な女性かもしれないと思った。そして、その特別に美しいというわけではないが、緑の大地の河の清らかな水を思わせるような素直な心が手に取るように分かるような気がした。
「顔に何かついています?」
「いや、何も……」と幸夫はグラスを取り、一気に飲み干した。
 都会はコンクリートジャングルだ。狭い土地に必要以上の人間がひしめきあって互いに傷つけあっていることに気づかない。交通事故に遭うまで、幸夫もそんなジャングルの中で飢えた獣のように生きてきた。他人を押し退け出世することしか眼中しかなかった。そのために他人を中傷したし、貶すことも躊躇わなかった。そうだ、その頃の幸夫は知性の皮を被った虎だといわれた。そのことに幸夫は誇りを感じていた。『うかうかとしていたら、いつか君に寝首を掻かれるな』と彼の直属の上司である部長が彼の面前で呟いたことあった。ふと、そのことを思い出した。
「あなたは実に穏やかな顔している。まるで、古代の仏像のように優しい表情だ」と幸夫は呟いた。
「山田さんも、穏やかな顔をしているわ。まるでお父さんのよう……」
「お父さんか……そんなに歳が離れていますか?」と少し不満の色を見せた。
作品名:あなたの空を飛びたい 作家名:楡井英夫