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あなたの空を飛びたい

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「でも、本当に見たんです、緑色した風を。風は緑の大地を自由に駆け巡り、緑色の風になるんです。一緒に釧路湿原を見ますか? 一緒にカヌーを乗りましょう。私は足が悪いし、うまく泳げないから、舟に乗るのが怖いんです。山田さんは泳ぎが得意ですか?」
「どういう意味ですか?」
「舟が転覆したら、私を助けてほしいのです」と奈津子は微笑んだ。
「いいですよ。海辺で育ちましたから、トビウオみたいに泳げます」
「あなたを担いで1キロくらいは泳げますよ」
「そんなに!」
「冗談です」
 とても面白かったのか、奈津子は手を叩いて笑った。
 
次の日、二人はカヌーツアーで湿原の川を旅することになった。
奈津子は鳥の名前や草の名前を教えた。しかし、幸夫の頭の中はそれらがほとんど記憶に残らなかった。ただ、緑の湿原と、澄んだ川に映る青い空。そして風の匂いを感じていた。そして奈津子の匂いも。
カヌーを降りて、夕食を共にした後、ビールを一緒に飲んだ。
幸夫は呟くように言った。
「僕は実を言うと、遠い昔ですけど、小さいとき、湖の近く住む親せきの家で過ごしたことがあります。そのとき、小さな舟を乗ったことがありましたが、その時の記憶が、今日、鮮やかに蘇りました」
「良いですね。私は生まれた時から、ずっと東京。いろんなところを旅行したけれど、上辺だけ知って終わり。この湿原に来て、何かを感じた」
「何を感じました?」と幸夫は奈津子の目を見た。
「交通事故、いつも利潤を追い求めてきました。儲けること、それが自分のためであり、家族のためであり、会社のためであり、世界のためと勘違いしていました。自信をもって生きてきました。それが、つい三年前、交通事故で一瞬のうちに妻と子を失ってしまった時、どうしようも説明のつかない悲しみや虚しさを感じました。働いている意義も全く分からなくなりました。三年間、ずっと抜け殻のような日々でした。会社では、交通事故の前とさほど変わらないように演じて生きてきましたが。でも、最近、とてつもなく疲れを感じて、どこか行きたいと思ったとき、パンフレットを見つけた。天の啓示のように思って来ました。それに、なぜ妻がここに来たかったのか知りたいとも思いました。今日一日湿原を見て回って、少し分かったような気がしました」
「奇遇ですね。私も三年前に事故になり脚が不自由になりました。この三年間、私もほんの少し一歩前に進んだだけです。足が不自由になったショックからようやく立ち直ることが出来ました」
「あなたは良い。まだ、やり直しがきく。充分に若いから」
奈津子はくすっと笑った。
「何が、おかしいですか?」
「だって、山田さんだって、まだまだ若いのに」
「若い? もう、四十四ですよ」
「遠い昔ならいざ知らず、今の時代、人生は八十ですよ。まだ、折り返し点じゃないですか」
「折り返して点か?」
「ごめんなさい、生意気なことをいって、近所の住職さんから聞いたことです。住職さんは何でも大阪大学の物理学を専攻したとても頭の良い人です。でも、ある日、科学の虚しさを感じて仏教に入ったの。とても、いいことを教えてくれるの。空から地上をみれば、どんな壮大なもの点にしか見えないと教えてくれたのも、住職さんなの」
「住職さんにお子さんは?」
奈津子は首を振った。
「じゃ、君を自分の娘のようにいとおしさを感じているのかもしれない」
奈津子は少しうつむいて、「人は地上の一点にも値しない存在に過ぎないと」と呟いた。
「一点にも値しないと……」と幸夫は復唱した。
「だから、過去をくよくよ考えてしょうがないと」
「そうか、しょうがないか」
「人はどうすることもできないとも、住職さんは言いました」
「どうすることも?」
「それより前を見て生きなさいと」
「前を見て?」
「人が生きているうちに、朝日が拝めるのは、限られた回数だと言いました。そうだ、明日、一緒に朝日を見ましょう」と言い残して、自分の部屋に戻った。
 
朝早く起きて二人は旅館を出て、タクシーで湿原の近くまで来た。
靄が出ている。まるで、雨降り日のように全てのものがその輪郭を曖昧にしている。
「耳を澄ませて……」
「何が聞こえます?」と幸夫は尋ねた。
「川のせせらぎ、ほら、聞こえるでしょ?」と奈津子は幸夫を見た。幸夫は子どものようにうなずいたのを見て、奈津子は微笑んだ。
「時間が経つと、やがて靄が晴れて緑の大地が露わになります。そして、知らず知らずのうちに緑の湿原に風が走ります」
「私はずっと退屈だった。こんな退屈ところへ、どうして妻が来たいと思ったのか、想像できなかった。でも、ここに来て少し分かった」
「私は、この大地が好きです、ふと、遠い昔の日本の原風景がここにあるような気かします。すると、太古から流れて時間を感じることができたような錯覚を覚えるのです」
「それは間違っても、錯覚じゃない!」と大声で幸夫は言った。
奈津子は口に人差し指を立てて、「大声は出さないでください、鳥が逃げてしまいます」
「どこに?」と幸夫が尋ねると、奈津子は指で示した。湿原になかにぽつんと立っている大きな樹に、鳥らしき影があった。
奈津子の歩くままに、幸夫はついていった。どれほど歩いただろうか、もうすっかり靄は晴れていた。突然、奈津子は振り向き、「ようこそ、緑の大地へ!」と大声で叫んだ。幸夫はついて歩くのが精一杯だったので、そう言われて改めてまわりを見渡すと、確かに緑の大地だった。
「素晴らしいでしょ」
「素晴らしい、君の背中に翼が生えているように見える」
「とうして?」
「まるで、鳥のように空を自由動き回るように、君は大地を歩き回る」
「足が悪くなる前、陸上をやっていたんです」
「道理で、私もテニスをやっていたが、歳には勝てない」
奈津子は目を閉じて、「緑の湿原を渡る風を感じるでしょう。目を閉じて感じてみてください」と呟いた。幸夫も同じように目を閉じた。
「確かに感じる
「少し夏の匂いがしませんか?」
「夏の匂い?」
「少しだけ……母の実家が長野の田舎なの、そこはもう十年を行っていないけど、周りは田圃だらけで、夏になると草の匂いでむせた記憶があるの」
「緑の匂い?……忘れたな。都会で暮らして二十年、どんなに頭の中を叩いてもアスファルトの匂いしか思い出せない。僕も田舎で生まれたのに」
「死のうと思ったことあります?」
「あった。妻子を交通事故で失った時……でも、死ねなかった。死んだら、誰が妻子のことを思ってくれるのか、それが気になり死ねなかった。だからいって、前と同じように生きることは出来なくなった。どうすることもできない日々が長い間を続いた」
「じゃ、今はまた前と同じように前向きに生きられます?」
幸夫が目を開けると、奈津子がじっと見ている。その瞳に、少し悲しんでいるようにも見える幸夫の顔が映っている。
「分からない?」
「そんな悲しそうな言い方をしないでください」
幸夫が顔を近づけ、「どこかで、君と出会ったような気がする」と呟くように言うと、
「恥ずかしいから、そんなに近くで見つめないでください。でも、どこで会いました?」と顔をそむけた。
「思い出せない」
「じゃ、前世かもしれませんね」と真顔で奈津子は言った。
作品名:あなたの空を飛びたい 作家名:楡井英夫