ひとつぶ
穏やかな波の音が再び私達の耳を満たし、言葉は自然、消え失せた。暗い沖合いを見晴るかす視線の中に、漁船の小さな漁り火が入って、それをぼんやりと見つめる。多分、同じものを兄も見ていただろうが、私は彼を見なかった。空咳に紛らわせて、一、二度、兄が鼻をすすり上げたように聞こえたから。
漁船が通り過ぎるのを見送って、私達はどちらからともなく来た道を戻り始めた。
「明日は何時に帰るんや?」
「朝飯、食ったら出る。明後日の夕方までに一本、書かなきゃなんないんだ」
「おまえの小説な、読ませてもろうとるぞ」
「少しは夫婦生活の『お役』に立ってる?」
「何、言ってんや。それよか出来ればもっとこう、未成年も読めるもん書いてもらえるとありがたいな。せっかく小説家の弟がおんのに、生徒に紹介出来んやろ?」
「そのうち芥川賞獲るから」
「期待せんとに待っとうわ」
海から遠ざかるにつれ、兄と私の会話はようやく続くようになっていた。実家の庭から出てくる人影が見え、屋外灯で妹だとわかった。彼女は「晩御飯、出来たよ」と私達に声をかける。帰りの荷物の片付けを、そのまま広げて出かけた私への小言付だ。等閑な謝り方に更にツッコミが入った。妹は年々、母の口調に似てくる。きっと結婚して子供が出来て叱る時には、もっと似るだろう。私がくつくつ笑うと、彼女は変な顔をして、「さーちゃんは、いっつも真剣みが足らん」と頬を膨らませた。その頬をつまんでやると、つまみ返された。「まあまあ」と穏やかな口調で兄が取り成す。この構図は昔から変わらない。
そうしてじゃれ合いながら私達は、庭の木戸を閉めた。
穏やかに凪いだ海を窓に留めながら、新幹線が走る。春とは名ばかりの三月の海だが、沖はふんわりと霞んで暖かそうに見えた。
三日前に同じ道を実家に向かった時、胸には何の感慨もなかった。仕事の締め切りと重なって、「面倒くさい」と思う以外は。
徹夜で目途を付けて乗った行きの新幹線は、眠りを貪る場所でしかなかった。帰りは起きてはいたが、それは翌日の締め切りが気になって眠れないだけで、故郷を離れると言う寂しさでも、逝ってしまった者への感傷でもなかった。
そうだと、私は思っていた。
しかし海を見るうちに知らずに左頬を伝った一粒の理由づけは、結局、東京に着いて日常生活に戻っても、出来はしなかった。