ひとつぶ
「…と、言う話はどうだい?」
空になったグラスを差し出す。受け取った環くんは、眉毛をへの字に曲げた後、破顔した。
「なんだ、小説のネタですか?」
「あ、クラリとしなかった? 傷心の主人公を慰めてやりたいと思わない?」
新しいグラスをカウンターに乗せた彼の手を、私の右手が包んだ。環くんは驚く様子もなく、いつもの慣れた手つきでやんわりとそれを外し、「お客様とはお付き合いしないんです」と、これまたいつもの言葉を返した。
私はこのバーテンが気に入っている。際立った美形ではないが、ほのかな色気を感じさせた。私だけじゃなく、ちょっとその気がある者は、必ず一度は口説いているのじゃないかな。この『ヴォーチェ・ドルチェ』はそう言ったところじゃないから、無理強いは出来ない。それに客とは店以外で親しくしない…をモットーにしていて、お茶の一杯にも応じなかった。ついたあだ名が『凍れる花』――これはここのオーナーのぼたんさん(=男)がつけたらしい。夢見がちだと本人は笑う。
「何なに? 何か楽しいお話?」
本格的に口説こうとすると、必ずぼたんさんが邪魔をする。これも恒例だ。
「二ノ宮さんが新しい小説のネタを教えてくれたんです」
「まぁ、今度はどんなお話なの? 縛り? 心中? この前の渡辺淳一郎っぽいのは、なかなか楽しませて頂いたわ」
「それが珍しく普通の話で、ホロリを狙ってらっしゃるらしいですよ」
ぼたんさんが興味津々で、私の隣に座った。
「ぜひ私にもお聞かせくださいな」
大きな手が上着の袖をつんつんと引く。
「口説く時にしか使わないネタだよ」
「あら、私じゃ駄目ってこと? にくらしいこと。でも環ちゃんにも使えなくてよ、二ノ宮さん」
「うん、また玉砕した」
さざめく笑いが起こった後、新しい客が入ってきて、ぼたんさんはそちらに意識を移した。カウンターに座る別の客が、オーダーのために環くんを呼び、私の周りは静かになった。
薄暗く静かな店内に、ぽそりぽそりと交わされる耳ざわりでない会話は、あの夜の波の音のようだ。センチメンタルでいて、心地よい。
私は目を閉じて、波の音を懐かしんだ――左頬に、一粒が伝った感触を思い出しながら。