其は匂ひの紫
実は本題になかなか入れずにいた。他愛もない会話は厭わない多喜であったが、友禅の話になると途端に口が堅くなった。ふざけた笑顔を見せるだけで、のらりくらりと話題を変える。利市にそれをさせないためか、彼一人では絶対に席につかず、他のホステスが必ず同席した。
そんな二人の奇妙な様子は、いつしか従業員の間でも知れることとなり、好き勝手な物語がネタにされる。ロマンティックなものから、ドロドロとした愛憎劇さながらのものまで、良い酒の肴だ。根負けしたのは多喜だった。だからと言って素直に話を聞くことになったかと言うとそうではない。
「そうやなぁ、ほな百回、休まずここに通ったら話の続きは聞いてやる。ただし、それまであの話はせんこと」
「何で百回?」
「百回指名されたらボーナス出んねん。それに深草の少将みたいでロマンティックやろ?」
『深草の少将』とは、小野小町の愛を得るために百夜通いを決行した昔話の主人公である。九十九日目の大雪の夜、道行の途中で凍死してしまい、恋は成就しなかったと言う縁起の悪いオチがついていた。
「自分が小町ほど美人や思てんのん?」
他のホステスが茶化して笑ったが、多喜は気にしない。それまでの日数は毎日じゃないからリセットすると言われた。
百夜通いなど、方便に違いない。昼間仕事を持つ身が、片道一時間以上の道のりと、決して安くない酒代で百日通い続けるのは、容易なことではなかったからだ。途中で利市が根を上げると踏んでのことだろう。しかし十五才の頃から乃木工房に修業に入った利市は、我慢強さには自信があった。その条件を即答で呑み、週四日の多喜の出勤日に通う日が始まったのだ。
友禅の話題を出さない限り、多喜は利市をちゃんと客として遇してくれた。案外に話し上手で、人気があるのもうなずける。最初はその女装に違和感もあったが、見慣れると『ふぁにー・ふぇいす』のホステスの中でも、キレイどころに入るだろう。店内の照明が薄暗く、ほんのり赤いライティングの効果もあると言えたが、顔の造作が基本的に整っているのだ。
絢人が自慢らしく、彼の話になると相好が崩れた。頭もいいし、習っている剣道の筋も良いと親馬鹿丸出しで話す。
多喜のそんな様子を見ると、利市は本来の目的を忘れ、いつの間にかの客の一人となっていた。