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其は匂ひの紫

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「毎晩、嵐山の辺まで出歩いてるみたいやけど、変な虫がついたんやないやろな?」
 乃木工房の事務方を取仕切る宮前が、将来、工房を背負って立つ利市を慮って言った。飲み歩く場所は出町柳にもたくさんある。一時間以上かけて、それも毎晩飲みに行くとなると、理由は女性絡みとしか考えられないのだろう。利市は独身で、乞えばいくらでも好条件の、工房にとっても有益な縁談が入る。宮前が心配するのも無理からぬことだった。
「そんなんやないんです。どうしても教えてもらいたい人がいて、その接待みたいなもんやから」
「そやったらええけど。あんまり酒、強い方やないんやし、毎晩遅遅(おそおそ)やったら仕事にも差し支えるさかい、ほどほどにしときや」
 酒は自分が気をつければ大丈夫だったが、店内の空気の悪さには辟易した。店は古いビルの地下にあって、空調と排煙設備はあるものの、それも古くなっているのか完全に煙草の煙は排されず、何となく店の中は霞んで見えた。ホステスが使う香水の匂いと、アルコール、煙草の匂いなど、さまざまなものが少しずつ混ざり合って、空気に微妙な匂いをつけている。利市は子供の頃に喘息を患った。成人してからほとんど出なくなったが、疲れが溜まって免疫力が低下すると、軽く咳き込むこともある。
――やばいな…
 百夜通いを始めるにあたって、利市は久々に吸入器を携帯するようになっていた。持っているだけで安心する御守りのつもりだったが、通い始めて五十日を越えた辺りから、店でしばしば咳が出るようになり、ついにある夜、発作が起きた。


(四)

 利市は遠くで声がするのを聞いていた。
「また友禅、するん?」
「さあ、どうしょうかな。アヤはどうしたらええと思う?」
「そんなん、タキちゃんのことやろ」
「冷たいなぁ、相談してるんやで」
「ぼくは、タキちゃんは友禅作ってる時が最高、かっこええと思ってるけど?」
 目を開けると天井が見えた。そのまま視線だけで見回す。二階へ上がる階段と、小さな仏壇、暖簾のかかった店への入り口、摩りガラスの入った格子の引き戸が片方に寄せられ、台所が見えた。こちらに背を向けて立つ二人は大人と子供で、まず子供が味噌汁碗を乗せた盆を持って振り返った。
「あ、起きたみたい」
 絢人だ。利市と目が合って、多喜に声をかけた。
「目、覚めたんか? 今から朝飯やけど、食える?」
作品名:其は匂ひの紫 作家名:紙森けい