其は匂ひの紫
利市は小学校の社会見学で、乃木工房を訪れて手描き友禅に興味を持ち、工房が開いている友禅教室に通った。中学を卒業してから正式に乃木冬川に弟子入りし、師が亡くなるまでと合わせて十五年余り、その作品を間近で見て学んだ。もっと長く工房で働いている人間もいるが、その誰よりも師の作風を理解していると、利市は自負している。しかし多喜は、冬川の友禅を見続けてきた利市よりも正確に、冬川の作品を再現してみせたことになる。色はともかく図案も、虫くいの葉か、枯れの花弁かの違いで、素人目にはわからないほどだ。たとえ贋作目的で似せて作ったのだとしても、技量が伴わなければ成しえない仕業だった。
「したら、今は?」
「ここの店主とフリーター」
あれほどの腕を持ちながら、使わずにいると言うことが、友禅の世界で生きている利市には信じられない。
「たかが紫」発言で熱くなった利市の心は、毒気を抜かれて平静を取り戻す。かわりに別の熱が満ちてくるのがわかった。三枚の作者が本当に多喜であるなら、再びあの色を見ることが出来る。
「鳴沢さん、お願いがあります」
「嫌や」
話の内容を最後まで聞かず、多喜は答えた。利市は面食らい、その表情を見て彼は面白げに笑った。
「まだ何も言うてないけど」
「言わんでもわかるわ。フミさんに頼みたかったことを、俺に頼みたいんやろ? お断りや」
「なんで?」
「そんなんに時間かけるほど生活に余裕ないから。食うて行けんくなる」
「それなりのお礼はします。何やったら、うちの工房に入ってくれても構わない。話はつけるから」
多喜は相変わらずへらへらとした笑みを浮かべてはいるが、少し目の印象が変わったように利市は感じた。どこを見ているのか、微妙に視線も外れている。
「友禅、嫌いやねん。二度とする気ない。悪いな」
そう言った時、一瞬、彼から笑みが消えた。「おや?」と利市が彼を見つめると、また先ほどの笑みが浮かぶ。
会話が途切れた時、電話が鳴り、多喜は受話器を取った。
あきらめきれない――利市は机上にまだある写真を見た。師が亡くなって六年。あの仕事はもう見られなくなった。白い反物が命を吹き込まれ、着物のために鮮やかに変容していく様子は、どんなに焦がれても二度と見ることは出来ないのだ。思い出は年月と共にやがては不鮮明に失せていく。せめてあの色だけは、失いたくない。