其は匂ひの紫
乃木文人は三年前に病没していた。通された居間に小さな仏壇があり、運転免許証の写真だと思われる無表情な遺影が飾られていた。享年四十四とのことだが、もっと老けて見える。
男は鳴沢多喜(なるさわ・たき)と名乗った。文人とは十年来の友人で、今は彼の息子・絢人(あやと)の保護者であり、この店を経営しているらしい。およそ儲かっているとも思えない店だが、暮らし向きは窮しているようには見えなかった。
「それで、フミさんに何か用やったんか?」
利市は落胆の色を隠せない。糸口が途切れてしまった。もしもあの冬川紫風の着物が文人の手によるものだったなら、彼が亡くなった今となっては、新たに見ることは難しいだろう。
それでも確かめずにはいられず、利市は三枚の写真をテーブルの上に並べた。
「この着物なんですが、見覚え、ありませんか?」
多喜は手に取るでもなく、写真を見る。利市は着物の経緯を話した。オークションや古着市で出ていたもので、乃木冬川の銘がついているが偽物であること、その足跡を辿ると、この店に行き着いたこと、そして製作者が文人ではないかと思っていることなどなど。
多喜は利市の話を、時折、皮肉っぽい笑顔を見せながら聞いていた。その様子から三枚の着物に関して、まんざら知らないでもないように利市には思えた。
「ほんで、これを作ったんがフミさんやったら、どうなんや? 今まであの人を探してたように思えんかったけど?」
「…この色は、誰もが出したくても出せんかった色なんです。もしこれが文人さんの手によるものやったら、どうしたらこの色が出せたんか聞いてみたくて」
くつくつと多喜は笑い、「どいつもこいつも」と呟いた。
「思い出した。あんた、川村さんって言いやったな? 下の名前、リイチやろ? 確か唯一、冬川の『冬』の字を使こうていい弟子らしいやないか」
「はい」
「絵柄も染色も師匠に引けを取らんって言われてるのに、未だに『冬』を名乗ってへんのやて? それは何で?」
「それは…」
利市が未だに『利市』のままなのは、本当の意味で後継足り得ないと彼自身が思っているからだった。冬川紫を再現するのは無理かも知れない。しかし自分なりに納得する紫色をさえ、利市は表現出来ずにいた。周りは冬川紫を期待している。それがゆえの『冬』だと、兄弟子達の目が見ている。紫を染められないままでは、『冬』を名乗れない。