其は匂ひの紫
そして多喜が利市のために染めた振袖は、冬川紫と言う名の多喜の『紫』だった。
師は冬川紫のみならず、紫を染められない一番年若い自分になぜ、『冬』の字を与えたのだろうかと、ずっと考えていた。その疑問に、多喜が代わりに答えを出してみせた。
「自分の『紫』を染めて、『冬』の字を名乗るよ」
片腕に多喜の存在を感じながら、利市は言った。
「そうか」
と、多喜は静かに答えた。
「友禅はもう、せえへんのか?」
「生活出来へんからな。これからアヤに金かかるし」
着物の需要は年々少なくなる一方だった。手描き友禅ともなると高価で、更にその傾向が顕著だ。乃木工房ですら拵え一本では成り立たず、工房での友禅教室はもちろん、カルチャー・スクールでの体験教室や、和風雑貨、インテリア等に手を広げている。
独立して自分の工房を持つのは難しい。利市は多喜を乃木工房に誘ったが、やんわりと断られた。
振袖をたたみ終え、たとう紙(着物を包む紙)で包むと、多喜は利市に差し出す。
「そんな、もらわれへんよ」
利市は慌てて押し戻した。
「誰がタダでやる言うた? ちゃんと諸経費はもらう。それに半年の生活費も補填してもらう約束やけど?」
多喜はあきれ顔で言った。「あ」と利市は彼の言う約束を思い出す。考えてみればこの振袖を作る間、多喜はスーパーの早朝パート以外の仕事を休んでいた。午前中のコンビニのアルバイトは辞めねばならず、『ふぁにー・ふぇいす』は長期休暇扱いになっているようだが、当然、その間の給料はない。
――半年の生活費って、どれくらいなんやろう
考えると冷たい汗が背中の中心を流れる。そんな利市の心の中を見透かして多喜が笑った。
「冗談や。諸経費と、おまえが着物一枚、拵える時の値段でええよ。分割オッケイやから」
一階に下りると、ちょうど絢人が学校から戻ったところだった。例によって営業札を出したまま店を不在にしていたので、多喜の顔を見るなり小言が飛ぶ。しばらく会わないうちに絢人は変声期に入ったらしく、心持、声が掠れていた。「ごめんごめん」と多喜は謝るが、一向に真剣みがない。絢人はすかさず突っ込もうとしたが、利市の姿を見てやめた。
「川村さんを車で送ってくけど、アヤも一緒に行く?」
「留守番してる」
「ほな、車回すから、表に出とって」
多喜はそう言うと車の鍵を持って、裏口から出て行った。