其は匂ひの紫
この三ヶ月、利市は出来上がる冬川紫のことよりも、多喜のことを考えていた。塩崎が語った辛い彼らの過去が、頭から消せない。利市には、あの色に対する執着と、『冬』の字を受け継ぐにあたっての拘りしか念頭になかった。そんな自分勝手な想いで、あれほど染めることを拒んでいた彼に、冬川紫を染めさせてしまった。そのことが、ずっと利市を苛んでいる。どんな顔をして、多喜に会えばいいのか。
そんなことを考えながら、『文箱』への行き慣れた道を歩く。重い足取りであるのに、ちゃんといつもの所要時間で着いてしまうことが恨めしかった。
「いらっしゃい」
出迎えた多喜は利市を二階に案内した。二階に通されるのは初めてだった。二部屋あって一つは絢人の部屋で、平日の昼間なので学校に行って居ない。もう一室は二階にしては珍しく床の間がある和室だったが、広く使うために床の間の部分に箪笥類が押し込まれていた。
部屋の中央に据えられた衣文掛けに、大振袖が掛けられている。陽に茶色く焼けた畳の古びた和室には不似合いな大振袖は、白木蓮の絵柄、地の色は――紫。今まで乃木冬川その人しか染められなかった幻の色だ。
利市の喉仏が上下した。利市が求め、文人が焦がれ続けたその色が、鮮やかな大振袖として現れた。
利市は多喜を振り返る。入り口の引き戸に背を凭せて立つ彼は笑った。その笑みを見ると利市は切なくなった。この素晴らしい一枚を、どんな思いで染めたのだろうかと。
「どない?」
「今まで見たどんな着物よりも、きれいや」
多喜は振袖の方に歩み寄り、
「冬川紫の、その美しさに感動する。そやから、その美しさを絶対に許さへん」
長い袖を手に取った。
「これは結局、冬川紫やない。あの色は乃木冬川が作る紫やから、そう呼べるんや。冬川かて、毎回同し色を染められたわけやないやろう。知っての通り、いつも同し条件で染めることは不可能やからな。『今日の色』は『明日の色』やない。そやから、乃木冬川以外の人間が染める紫は、どうしたって紛いもん。冬川が亡うなった今、もう誰にも染めることは出来へん」
「…でもこの色は」