其は匂ひの紫
多喜が文人の山科の工房を訪れたのは、工芸大の学生の頃だったと言う。学生と言ってもパチンコとマージャンで無為に日々を過ごし、三回生を二回繰り返してからと言うもの、ほとんど授業に出なかったらしい。工房を訪れたのだって、通りかかった時に打ち水をしていた文人がタイプだったからで、この時初めて工芸大学生の肩書きが役に立ったと多喜は笑った。
利市はすぐには意味が把握出来ず、多喜はそんな反応を面白がっているような、悪戯っぽい表情で見ていた。
「心配せんでも、おまえは趣味やない」
「なっ…!」
利市が目を見開くと、多喜は一層、笑った。
「冗談が通じへんな」
「やっぱり冗談なんか」
多喜は笑みの余韻を唇の端に残し、コーヒーを飲み干した。
「でも、あの優しい色が好きやったんはほんま。個性は足らんかも知れんけど、見るもんを暖かい気持ちにさせてくれた。それだけで充分やと思うのに、職人ってやつは…」
最後の方は声が萎み、何を言ったのか利市には聞き取れなかった。
(六)
絵柄を挿し終えると、蒸しの作業に入る。染料を生地に定着させるため、百℃前後に温度が設定された蒸し器の中で、数十分蒸し上げるのだ。絵柄にせよ地色にせよ、蒸し加減で発色が変わる。色の出来映えが友禅師の思い描いた通りになるかは、蒸しにかかっていた。経験と熟練の勘が物を言う。蒸しは塩崎染工の専門で、今回の多喜の作品には全面協力をしているのだが、専門分野であっても、あくまでもアシスタントとしてで、温度も時間も多喜が細密に管理し、蒸し器に付きっきりであった。
挿し友禅で彼の実力を目の当たりにした利市は、あの日、帰ってすぐに休暇願いを出した。『紫』を見るだけなら、引き染めの作業からで充分であったが、色を「見るだけ」では収まらなくなっていた。色は、一枚が仕上がる工程の中から生まれている。一枚の振袖が仕上がる全ての工程が、あの色を生み出すために存在している――そう思えてならない。
「無期限て、いったい何をしとるんや? 沢口様の訪問着、待ってくれるように頼んでまで」