其は匂ひの紫
乳白色の花弁の先端から内に向かって、出来るだけ薄い灰桜の色味を暈す。今まさに滑り落ちようとする雨粒が、真珠のように美しい。その花と雨粒を魅せるために、枝は極力、色を抑えられた。しかし存在感がないわけではなく、それが無ければ絵柄は成立しないほど複雑な色目で挿されている。
地味だなどと思ったことが、友禅師として恥ずかしい。決して豪奢でないが、人の目を惹くきつける仕上がりになることは、その部分からでも想像出来た。
利市は多喜の手元から目を離し、彼を見た。普段はへらへらと笑い、ふざけた印象が先に立つ多喜だが、絹に向かう横顔はその俗っぽさが微塵も感じられない。無表情に黙々と色を挿す。
触れてはいけない、壊してはいけない『時間』がそこに在った。
「ただ見てるだけて、退屈やろ? そやから引き染めになったら連絡する言うたのに」
ひと段落ついて、多喜は筆を置いた。部屋の隅に追いやっている電気ポットの湯で、インスタント・コーヒーを淹れてくれた。紙コップなのはご愛嬌だ。
「いや、面白いよ。他所の作業見るんは、勉強になる」
「師匠はフミさんやから、やってることは同しはずや」
「文人さんとは山科の工房で?」
「うん。一目ぼれ」
利市は文人が残した着物を思い出していた。冬川の死後、作業場をそのままの状態で遺すことになり、用意のために色々と整理をしていた時、振袖が一枚、出てきた。風情は師のものではなく、落款の名を見た宮前事務長が文人のものだと教えてくれた。古典柄で伝統を守りつつも、独創的な色使いや絵柄の構成で追随を許さなかった師とは違い、文人の作は、技術的には申し分なく、絵柄も優しい彩色で嫌味がないものの、『常識』を脱し得ない大人しい作品だった。凡庸とまでは言わないが、一目ぼれさせるほど目を惹くものとも思えない。
それとも自分の工房を持った山科時代に、作風が変わったのだろうか?
「一目ぼれした作品って、どんな?」
「違う違う。本人に一目ぼれしてん」
「え?」
「俺、女に興味ないから」