其は匂ひの紫
「皮肉なもんですなぁ。冬川先生の息子さんがどないにしても染められんかったのに、あの『紫』を憎んどった多喜ちゃんが染めてしまうんやから」
「憎んでた?」
「文人先生が、身、持ち崩したんは、あの色のせいみたいなもんやさかい」
塩崎は言葉を濁した。文人が病没したことは聞いたが、乃木を出てからどのような生活を送っていたのかは知らない。利市が聞かなかったこともあったが、多喜もあえて話さなかった。ただ文人の死を教えてもらった時、多喜の傍にいた絢人の冷ややかな反応が思い出された。
「多喜ちゃん?」
塩崎染工の作業場裏に小さなプレハブ小屋が建っていた。塩崎が声をかけると入り口が開いて、多喜が顔を見せた。
「辛抱の足りんやっちゃ」
彼は利市を見て、ニヤリと笑う。
「すまんな、子供で」
と利市は苦笑した。
塩崎は作業場に戻り、利市は中に入った。
六畳ほどのプレハブは文人亡き後、塩崎染工の物置の一つとして使われていたようで、社名の入ったダンボールが幾つも隅に積み上げられていた。もともとは物置だったのかも知れない。本来の役割に戻ったところを、再び多喜が友禅染めの工房として使うことになり、取り急ぎ空間を作って体裁を整えた様子が、ダンボールの積み具合で察せられた。
多喜の作業は、図案から仮絵羽への下絵(着物の形に仮縫いした白絹に青花液で下描きする)、糸目(下絵の線に沿って防染のため細く糊を置く)までを終え、挿し友禅(絵柄に色を挿す)に入っていた。
「もう少しでキリのええとこになるから、続けさせてもらうけど?」
多喜はそう言うと、頭の手ぬぐいを巻きなおした。
利市は勧められた座布団に座り、彼の挿す様子を見る。
絵柄は白木蓮。金糸・銀糸の波や、枝に止まる鳥や、下を行過ぎる御所車などの華やかな絵は一切ない。ただ白い花と、それを咲かせる枝ぶり、花弁につく雨粒があるだけ。多喜は利市の希望を聞いたが、逆に利市は彼にまかせた。彼らしい絵柄をと言い添えて。多喜が選んで図案化したのは雨上がりの白木蓮だった。華やかさが売りの友禅の振袖にしては、地味に過ぎるかと利市は思っていたが、目の前で描かれる絵柄を見て息を呑んだ。