其は匂ひの紫
利市の答えに多喜が振り向いた。何かを言いたげに薄く唇が開いたが、すぐに引き結ばれた。それから目線を落として浅く息を吐く。唇の端が少し上がった。
「職人やなぁ、おまえも…」
多喜は独り言のように呟くと、エンジンをかけて車を出した。そしてそれきり、黙りこくってしまった。
時々、利市は運転する多喜の横顔を窺い見た。視線を感じているだろうに、彼の顔の筋肉は動くことはなく、無言で話しかけられることを拒んでいる。結局、利市のマンションに着くまで、言葉を交わすことはなかった。
「送ってくれて、ありがとう」
マンション前に車は止まった。礼を言ってドアに手をかけた利市を、多喜が呼び止める。
「もう『ふぁにー・ふぇいす』に来んでいい」
ドアから手を離し、利市は多喜を振り返った。さっきと同じく「行くさ」と、彼をまっすぐ見て答える。百夜通いはまだ半分も残っていた。言い換えれば後半分だ。ここで引いては何もかも振り出しに戻ってしまう。
利市のそんな視線を多喜は無視して、ダッシュボードを開け、ボールペンと紙切れを取り出した。それに何やらを綴ると、利市に差し出す。見ると『塩崎染工』と言う名と住所と電話番号が記されていた。
「知り合いの水元や。場所を貸してくれる」
「何のために?」
「振袖一枚、拵える。そやからもう、百夜通いはせんでいい。行ってもおらんから」
「え?!」
多分、利市は間の抜けた、信じられないと言った表情をしているのだろう、彼の顔に笑みが浮かんだ。それから、さっきの紙切れを利市の手から取り、一行書き加えた。メール・アドレスだった。
「パソコン、持ってるやろ? 絵柄は何がいいかメールしろ。せっかくやから、おまえの好きなモチーフにしたる。出来れば花がありがたいんやけど。花なら、たいてい描けると思うし」
「そしたら?!」
全てが飲み込めて、利市は目を大きく見開いた。
「引き染め(地色を染める作業)になったら、連絡する。最低でも四、五ヶ月の仕事やからな、生活の保障はしてもらわなあかんけど?」
決定的な多喜の言葉を聞いて、利市は自分の頬を抓った。痛い――これは願望が見せた幻影でも、幻聴でもない。多喜は承諾したのだ。あの色を染めて見せることを。利市は念のために、もう片方の頬も抓る。同じ痛みをちゃんと感じた。
利市のその様子を見た多喜は、声をたてて笑った。
(五)