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其は匂ひの紫

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 利市の職場・乃木工房は土曜日でも開いている。土日は手描き友禅の教室を開いていて、工房に所属する染師は週交代で講師を務めることになっていた。その日は運悪く利市が担当だったが、久しぶりに起こした喘息の発作が日頃の疲れも引き出し、とても出る気にはなれない。朝食を終えて絢人がその後片付けを始め、多喜が掃除や洗濯に取り掛かると、休む旨を工房に連絡した。帰り支度を始める利市の様子を見て、
「もう少し休んで行ったら?」
と多喜が言った。意外な言葉に利市が「え?」と聞き返す。
「まだちょっと顔色悪いし。帰りの電車でおかしなったら困るやろ? 洗濯済んだら車で送る」
「これ以上、迷惑はかけられへん」
「別に迷惑やなんて思てへんよ。まあ、どっちでもええけど」
 これはもしかしたらチャンスかも知れない。覚醒する直前に聞いた会話が現実のものだったとしたら、多喜の気持ちが少し、利市の話を聞く方に傾いているのではないか。実際、利市への当たりも柔らかくなっている。帰るまでの間に話が出来るかと期待して、彼の言葉に甘えることにした。しかし多喜は何だかんだと用事を作り、腰を落ち着かせることはなかった。土曜日はいつもそうなのか、それとも態とか――あの会話は利市の願望が見せた夢だったのか。
「もう『ふぁにー・ふぇいす』には来るな」
 帰りの車に乗り込んだ時、多喜が言った。
「行くさ」
「また昨日みたいに苦しなるぞ」
「心配してくれるんか?」
「昨日みたいなことになったら、迷惑なだけや」
「悪かったと思てる。子供の時に比べたら、ほとんど出んようになってたんで油断した。今度からちゃんと予防していくから」
 乗り込んだものの、エンジンはかからない。ハンドルに手を置いたまま、多喜はしばらく黙っていた。
 利市は急がなかった。自分から話を繋ぐこともせず、多喜の言葉を待った。
「金と時間使こうて、しんどい思いしてまで、何であの色に拘るんか、ようわからん」
 多喜に表情はなく、利市を見ようともしない。どこを見ているのか、何を思い出しているのか、利市に話しかけているのか、誰に問いかけているのか。
「色は他にもようさんある。その一色が出せんから言うて、着物が作れんわけやなし」
「自分に出せない色やからこそ、焦がれるんやと思う」
作品名:其は匂ひの紫 作家名:紙森けい