其は匂ひの紫
利市は喉の奥が乾いていた。喋ろうとするとヒューヒュー音がする。それで昨夜、喘息の発作を起こしたことを思い出した。『ふぁにー・ふぇいす』で急に息苦しくなり、ポケットを探って吸入器を取り出そうとしたのだが、ひどくなる予感が焦りを呼んで、上手く手が触れなかった。誰かが救急車を呼ぼうとするのを辛うじて制し、バック・ルームで休ませてもらった。見つけた吸入器で少しマシになった後のことを、利市は覚えていない。『文箱』にいるのだとしたら、多喜が連れ帰ったのだろう。
のろのろと起き上がると、身体中が痛かった。
「面倒かけたみたいやな」
「ほんまや。喘息持ちが、あんな空気の悪い店におったらあかんやろ」
利市の分の味噌汁と茶碗を絢人に渡しながら、多喜が答えた。慣れた手つきで絢人が人数分のご飯を盛り、テーブルの上に並べた。それから利市が座ると思しき位置を指差す。
「ありがとう」
「もう大丈夫なん?」
「うん。君にも迷惑かけたな」
心配してくれたのかと礼を言うと、「ほな、後片付け担当な」と絢人は自分の位置に座った。台所から多喜が「今日は土曜日やぞ」と絢人を嗜める。どうやら学校が休みの日の食事の後片付けは、絢人の担当らしかった。
「働かざるもの、食うべからずやないの?」
「この人は日頃、働いてるからええねん。それに病み上がりやし、少しは大目に見たり」
多喜も自分の位置に座った。昔ながらの典型的な朝の食卓。食欲がなかった利市だが、味噌汁で嗅覚が刺激され箸を取る気になった。
多喜は土曜日を絢人に合わせて、『文箱』以外の仕事を休みにしていた。『文箱』を休みにしないのは「本業だから」とのことだが、今ひとつ真実味に欠ける。午後二時から絢人が剣道の稽古に出るので、その暇つぶしに店を開けると言う方が正しく思えた。利市の心の声は「暇つぶしやん」と絢人が代弁した。利市が噴出し、それが二人にも伝染して、和やかな笑い声が食卓に響いた。