愛憎渦巻く世界にて
王城に戻ったマリアンヌは、大急ぎで自室へ戻る。自室で保管しているラスクを取ってくるためだ。ビクトリーにはその間に、樽に水を入れておいてもらう手はずだ。できるだけ急いで、先ほどの場所へ戻ってあげたかった。
幸い、井戸には行列ができていなかった。練兵場の端にあるその井戸は、壊れずに済んだ城内唯一の井戸だ。なので昼間は、たいてい長い行列ができてしまう。ビクトリーはほっと一安心すると、滑車を回して、水を汲み始めた。井戸の中からチャプチャプという水の音が聞こえてくる。
ラスク入りの布袋は、自室の机内にあった。誰かに盗られた様子も無く、机の片隅に鎮座していた。子供達に配る量も大丈夫そうだ。
城のシェフが、パンの余りから作ってくれた物だ。ケーキと違い、多くの材料を必要としないので、最近のお菓子といえば、これになっている。ただそれでも、マリアンヌは贅沢に感じたらしく、一度に全部食べてしまうのはやめておいた。しかし、そのおかげで、子供たちに配る事ができるのだ。
マリアンヌは袋の口を軽く縛ると、そのラスク入り袋を片手に、自室から飛び出す。しかし、ドアの前に人がいた。
「おっと!」
「わぁっ!」
部屋のドアの前にいたのはフィリップだ。彼と危うくぶつかりそうになったブリタニア。
「危ないわね。……なんで、そんな服装をしてるの?」
彼女は顔を冷たく濁らせた。
「その話は後にしてください……」
フィリップは、肌着姿だった。言うまでもなく、ブリタニアが着て行ってしまったからだ。みっともない格好だが、本人はそんな事を気にしていなかった。ブリタニアがいないため、彼は狼狽している。
「ブリタニア姫を見かけませんでしたか!?」
「見ていないけど、彼女と何かあったの?」
肌着姿から、喧嘩して身ぐるみを剥がされたのかと、マリアンヌは薄ら思った。
「御手洗いへ行ったまま、戻ってこないんです。しかも、ぼくの服を着たままですよ!」
「ええっ!」
マリアンヌは焦った。勝手にいなくなられるだけでも面倒なのに、ブリタニアはフィリップの格好をしているときた。面倒かつマズイ事態に陥っているわけだ。早く見つけて、元の服装に着替えさせねば、変な噂が立ってしまう……。マリアンヌは、彼女がいそうな場所を、フィリップと考え始めた。
「ヒヒーン!!!」
そのとき、外から馬の大きな鳴き声が聞こえた。ブリタニアの装甲馬車のものだ。
「まさか、動かせるの!?」
賢いマリアンヌは、ブリタニアが馬車を動かしたのだと察した。その予想は見事的中している。
間に合うかもしれないと、彼女は大急ぎで廊下を走り、馬の声がした方向へ向かった。フィリップも同様だ。彼女は、ラスク入り袋を握りしめて走るので、握力と振動で中のラスクがどんどん壊れていく……。