愛憎渦巻く世界にて
「もう水が無いよ」
ビクトリーが言った。彼は最後の水入りコップを、すぐ近くにいた子供に渡す。その子供はほっとしていたが、他の子供や作業中の人々は残念そうにしていた。
「ごめんなさいね」
マリアンヌが言った。もちろん彼らにも、冷たい飲み水を与えたいが、運んできた樽の中に、水はもう残っていない。また配るには、井戸がある城内まで一旦戻らなければならなかった。
「オレがひとっ走りして、水を汲んできますよ」
ビクトリーがそう言ってくれた。水を入れる樽は、彼一人だけでも十分持ち運べるだろう。さっそく、樽を担ぐビクトリー。
「用事があるので、私もいっしょに行きます」
マリアンヌが言った。彼女は、一旦自分の部屋に戻り、お菓子のラスクを取ってくるつもりでいた。もちろん、自分が食べるためではなく、子供達に配るためだ。
マリアンヌとビクトリーが王城へ戻り始めた頃。ブリタニアは、馬屋付近の物陰に潜んでいた。部屋からこっそり抜け出した彼女は、ゴーリ王国までの「足」を確保すべく、その馬屋へ来たのだ。馬屋は、王城の中庭の一角に建っている。先の戦で、屋根は穴があいたままだ。
ここに来るまで、城の兵士やメイドと何度かすれ違ったものの、脱走中のブリタニアとは気づかれなかった……。なにしろ彼女は、帽子も含め、フィリップの服装そのままだ。
なにしろ、城内は照明がまだ少なくて、かなり薄暗い。そのおかげで、髪色の違い(ブリタニアは黒髪で、フィリップは茶髪。)もうまくごまかせたようだ。二人ともクセ毛である事も幸いした。
また、兵士やメイドは多忙で余裕が無い状態だった。横目でチラリとブリタニアを一瞥すると、フィリップだと思い、軽い敬礼をする。ただそれだけの事だった。
もしかすると、怪しいと感じた者がいるかもしれないが、気のせいだとスルーしたに違いない。
とはいえ、フィリップの振りを完璧にできたとしても、馬屋の馬や馬車を堂々と使う事は無理がある。彼の趣味から考えると、自分一人で勝手に馬に乗る事は無いだろうから、堂々と馬を使おうとすれば、馬屋にいる人たちに止められるはずだ。
馬や馬車を使わずに、徒歩でゴーリ王国へ向かう事を、彼女は一度考えたものの、さすがに一人でトコトコ歩くのは危険だし、疲れ果てると考えたようだ。それに、自分がここまで乗ってきた、あの装甲式の馬車があるのだ。「自分の馬車に乗って、何が悪いの?」と、彼女は思った。元々の持ち主は、ムチュー軍だと思われるが、彼女の知ったことじゃないだろう……。
ブリタニアは、耳をすまして、馬屋の様子をうかがう。彼女の捜索が始まってしまうので、時間はあまり無かった。しかし、いつもの強引な調子で、馬車を使うルートは避けたかった。彼女を逃がしてしまった事になるフィリップが可哀想だからだ。彼女にもそれぐらいの温情はあるらしい。
「乗り心地はどうだった?」
「う〜ん」
馬屋ではあの「装甲馬車」のメンテナンスが行なわれているようだ。
実は、ビクトリーが馬屋の人たちに、そのメンテナンスを頼んでいた。先日の戦での助太刀(非公式だが。)の恩返しだとして、彼らは喜んで引き受けてくれたのだ。