愛憎渦巻く世界にて
フィリップは、枕からカバーを外す。それから、針に再び糸を通した。彼の目は枕カバーの破れ部分に注目し、左手で枕カバーを、右手で針を手にする。ただ、先ほどのドレスのときよりも、さらに集中する必要があるらしく、針を刺す前に一度、大きく深呼吸をした。寝心地に関わるため、枕カバーの表面に、補修の跡ができるだけ無いようにしなくてはいけない。顔の肌が枕に触れたとき、縫い目のせいで不快感が生まれてはならないからだ。
ブリタニアは、慎重に針を通すフィリップを見て、こっそり抜け出すなら今がチャンスだと踏んだ。
「ちょっとお手洗いに行ってくるわね」
念のため、声かけをしてみたブリタニア。これだけ集中しているように見えても、意外と声には普通に反応するかもしれない。もしそうなら、ドアの開閉音にも反応されてしまう。
「はい」
フィリップの返事は、ただそれだけの空虚なものだった。顔は縫い目のほうを向いたままで、どうみても空返事だ。しかし、これこそブリタニアが望んでいた反応だった。
ブリタニアは、自然かつ静かな足取りで、ドアへ向かう。フィリップの視線は縫い目を向いたままで、ブリタニアには一瞥もしない。両手を器用に動かし、慎重に一針一針を縫っている。すっかり熱中しているようだ。なにしろ、彼女がドアを開け閉めしたときでも、彼の熱中姿勢は微動だにしなかったのだから……。
その頃の城下町。ブリタニアと同様に、首都で待機中のマリアンヌは、自分にできる仕事に取り組んでいた。その仕事とは、首都復興作業に従事する人々への慰問活動だった。歌やダンスを披露するわけでなく、飲み水や軽食を振る舞うぐらいだが、役割としては十分だ。
ちょうど暇を持て余していたビクトリーは、マリアンヌの手伝いをしていた。生き残りの馬車を操ったり、彼女と共に水を配る事ぐらいだが、いい暇潰しになっているようだ。
「はい、どうぞ。あなたもどうぞ」
攻撃を免れた井戸からくみ上げたばかりの冷たい飲み水を、マリアンヌは次々に配っていく。彼女は笑顔で懸命に努めていた。人々はそれに対し、感謝の言葉や念を彼女に捧げていた。もちろん、同じ事をやっているビクトリーに対しても、いくらかは捧げられている。
目の前の活動に精一杯取り組む彼女だったが、やはり心の一部分には、シャルルたちの事があった。ゴーリ王国へ向かった彼らの事を思えば、ここで水配りをしている場合ではない。馬を借りられなくても、ゴーリ王国へ直行したい気分だった。今からなら、徒歩で向かった彼らに追いつけるはずだ。
しかし、彼らの足手まといになる可能性を考えると、気軽に行動できるものではない。彼女はもう何度も危ない目に遭っている。彼らがいなければ、とっくに死んでいるはずだ。
彼女自身もだが、彼らは何度も危ない目に遭っている。だが、彼らはうまく対処してきた。その事を彼女は何度も思い出し、「自分が彼らにできるのは、帰還した彼らを温かく迎えられるように、ここを良い環境にする事だ」と、自分に言い聞かせていた。彼らの心配など余計な事だと考えたのだ。
余計な心配を打ち消そうと、彼女はますます精一杯に働いた。念のためだが、彼女が働く慰問活動は無給だ。ただ彼女は、心配の打ち消し目的のためだけに、慰問活動を行なっているわけではない。自分でもできる事を考えた上でだ。