アイラブ桐生・第三部 30~31
太平洋戦争の末期、沖縄では
熾烈を極めた地上戦が展開されました。
沖縄戦における全戦没者は、20~24万人とされています。
日本側の死者・行方不明者の合計は、18万8136人で
そのうち沖縄県の出身者は、12万2228人にのぼります。
そのうちの9万4000人が民間人だった・・という記録が残っています。
終戦後に亡くなった人たちも含めると、
実際の数字は、はるかにこれを上回ります。
1945年4月1日、守備陣の薄い本島中西部に上陸した米軍は、
まず、沖縄を南北に分断する作戦に出ました。
ここから沖縄全島を舞台にした、壮絶な制圧と
抵抗の戦闘がはじまりました。
水際の迎撃作戦を選択せずに、
徹底抗戦の野戦を選択した日本軍との全面衝突が、
沖縄の全ての土地で繰り返されました。
この徹底抗戦は、6月25日に大本営の指揮命令系統が
崩壊するまで続きました。
戦闘に参加した軍人ばかりか、全島で住民をまきこんだ幾多の地上戦は
集団自決をはじめとする、幾多の悲劇を産んでいます。
しかし、おバァは、語ります。
「死んだ者はさぞ悔しかろうが、
沖縄の本当の地獄は、実は戦争が終わった終戦直後から、
さらにまた始まったのさ・・」
熾烈を極めた沖縄戦いの集結とともに、
軍人たちの捕虜とは別に、島民を収容するための
強制収容所が作られました。
本島で11か所、周辺の島もふくめると、
合計16か所に収容所が設置をされました。
本島の南部に、本土攻撃用の基地を建設するために、
無人化政策が強行されます。
宜野座地区の収容所には、生存島民の2/3にあたる
20万人以上が押しこまれました。
多くの場合、収容所は集落単位で管理されます。
またそれぞれにアメリカ軍の憲兵が配置され、
完全武装のもとで監視されました。
収容所の内部の管理は自治体形式がとられ、
物資配給や労務の供出など実務は自力によってすすめられました。
しかし決して万全な状態ではなく、飢えや負傷、
マラリヤなどが蔓延をして老人や子供たちが次々と
亡くなったことも、また事実です。
また、米軍による占領支配の地域では、
兵隊たちによる住民への暴行や、強盗行為などの
犯罪が多発発生をしています
無抵抗の住民を、背後から射殺するなどの蛮行も確認されています。
住民女性への拉致や暴行、強姦なども数多くありました。
まさに生き残っても、地獄といえる状態が沖縄では
長い期間にわたって続きました。
作品名:アイラブ桐生・第三部 30~31 作家名:落合順平