月下行 後編
自ら望んで神ではなくなった。神ではなく魔となり、森の神さまでは
なく千ノ王となった。その事に後悔は無い。が、失った者への未練と
執着はどうにも断ち難かった。
怨嗟の叫びを天地に吐きながら、とある決意を胸中で固める。
実行するだけの力はある。躊躇いは無かった。
「俺は、もう一つの罪を犯した。それは間違いなく罪だ。俺のエゴで、
身勝手だ。わかってはいたけれど、それに縋らずにいられなかった」
深く息を吐き出して氷上は花耶の手を引く。
「桜庭。俺と、一緒に来てくれないか?お前には知る権利と、全てを
身届ける義務がある」
◇◇◇
随分と暗くなってきた。徐々に灯り始めた家の明かりを受けながら、
久宝寺は一人立ち尽くす。
あんたは来るな、と花耶に念押しされていた。
話がややこしくなるから、と言うのが花耶の言い分だ。
素直に聞き入れる気にはなれなかった。強がっていても花耶は自分
の身を守れない。しかも相手は格別の特別クラスの魔物だ。どうや
ら本気で花耶を害する気持ちは無い、と頭でわかっていても安心感
には程遠い。
花耶のボロパートのすぐ近く。二階にある花耶の部屋が見える場所
で、久宝寺は様子を伺っていた。その時だ。何か大きな力が、波動
のようなうねりを感じた。
「あんの、バカ花!」
久宝寺はすぐさま全力で駆け出す。
結界が破られてる────すぐにわかった。鋭く舌打ちをして、ド
アノブに手を掛ける。鍵は掛けられていなかった。
「おい!桜庭!いねえのか、桜庭!?」
人が出入りした様子は無い。なのに室内に人影は無く、呼びかける
声に応える者もいなかった。
◇◇◇
「着いたよ。もう目を開けてもいよ」
どうして自分は氷上に従ってるんだろう?────漠然と疑問を抱
きながらも、花耶は目を開いた。
「ここは?」
景色を見下ろす形になるのは、氷上の腕に抱き込まれて宙に浮いて
るからだ。吹き上がる風が優しく頬を撫でていく。こんな状況でな
ければ爽快な気分に馴れただろうに、と少し残念に思う。
「俺にも桜庭にも因縁の場所。最初にオレ達が出逢った、お前が前
の世で生きた村が、在った場所」
氷上の指し示す先には、確かに社と思しき残骸があった。
「あれ?あたしのいた村って滅んだんじゃないの?何で?」
すぐに人家は見当たらないが、眼下には田園風景が整然と広がる。
明かりが乏しいせいで漆黒の闇に沈んだ海のようだが、氷上の言っ
たような壊滅し荒廃した形跡は伺えない。
「そうだよ。お前がいた村は、俺の手によって滅んだ。今のこれは、
後の世で出来た新しい村だ。俺とは何の関わりもない」
僅かの感傷も無く言い捨てる。その冷厳な横顔に、花耶は胸の痛み
を覚える。
自分の為に、その血を分けた氷上。重ねられた罪。執着と言う名の
愛情。神である身を魔物に堕としてまで、自分を助けようとした。
それは言いかえれば、罪の発端は自分だと言う事にもなる。
氷上が犯したもう一つの罪って何だろう────…
ぼんやり考えていたら、氷上が振り返った。
「今度こそ本当に着いた。見てみなよ、桜庭」
村の外れの山深い場所だ。辿り着いたそこは山頂に近く少し開けた
場所で、そこから村が見下ろせた。
「ここって……」
「お前を、前世のお前の骸を葬った場所。あそこの木の下に」
地に足が着く。と同時にしっかり回されていた腕が解かれる。
さっさと歩きだす氷上の後を、花耶は慌てて追った。
「あたしを……葬った?だってここ、墓場じゃないでしょ?それに
墓石も何も」
「どうして、お前を殺した村人と同じ所に葬らなければならない?
冗談じゃないよ。お前は良くても俺は許せない。だからだよ」
氷上の手が鬼火を招く。すぐに篝火のような炎が三つ、四つと現れ、
適当な位置に宿る。
深みを増す闇の中、灯された明かりが一本の巨木を幻想的に浮かび
上がらせた。
大きな桜の古木。山の主のような威風堂々たるその身気に手を置い
て、氷上が振り返る。
「墓など所詮、形式だ。お前の墓標は俺だけが知っていれば良い。
けれど、お前が淋しがってはいけないから……村が一望できるここ
にしたんだ」
語尾は飲まれるように口中でひっそり消えた。花耶は言葉を失う。
氷上の譲歩も気遣いも、決して偽りの物ではない。真実、自分へと
捧げられた物だろう。過去の、前世の自分へと────…
氷上は黙したまま、ただじっと見つめてくる。奇妙なまでに穏やか
で静かな佇まい。そこから感情は読めない。
その瞳が写しているのは、本当に今の自分だろうか?────…
疑えば尚更に苦しくなった。
「で?前世のあたしの墓に連れて来て、どうするつもり?まさか、
あたしに前世の自分の墓参りでもさせたかった訳?」
わざと突き放す口調で訊けば氷上は苦笑した。そして手招く。
「ここに、この木の下にお前を埋めたんだ。多分、もう何も残って
ないね。お前の肉も、骨も、髪も、何一つ断片さえ残っていない。
永い時を経て、水に戻り、大地に溶けて、恐らく木に取り込まれて。
だから俺にとってはこの桜もまた、お前なんだよ」
巡る命を輪廻と言い、万物は終わる事の無い魂の旅路を続ける。
何度も生まれ変わり、死に変わり、命はその精を精一杯生きる。
それが自然の摂理。それが輪廻の営み。けれど、
「俺は摂理に逆らった。お前の運命に干渉し、あまつさえ支配しよ
うとした。己の浅ましい執着と未練に狂って……罪を犯した」
「犯した罪?それって何?」
「お前を輪廻の輪から外した。力づくでね。お前に与えた俺の血に
よって」
深い溜息を漏らす。はっきりと氷上は疲れた様子を見せた。木の幹
に額と手を押し当て、苦渋の表情で目を閉じる。
「あたしを輪廻の輪から外す?何、それ?どう言う意味?そうされ
ると、あたしはどうなるの?」
「自然の流れで言えば、輪廻によって生まれ変われば完全に別の人
間になる。魂の核の部分は一緒でも、同じ人間とは言えないぐらい
別人になってしまう。だから、俺は自身の血を使って細工したんだ。
お前が、お前であるように」
死んだ事によって無になり、生まれ変わることで新規に組み立てら
れる筈の魂の骨格を、その身に与えた血によって制限させる。
血が鎖となって、花耶は花耶のパターンを失わずに花耶になる。
「壮大な計画だろう?俺はそうして永遠にお前を失わずに済むって
言うんだから。本当に我ながら壮大で、惨めで、愚かな計画だよ」
「何で?何で、惨めなの?愚かなの?」
「諸刃の剣、だからだ。お前を失わずに済む為の手立てが、同時に
障害ともなった。だから俺は、お前を得ることは無いんだ。永遠に」
「どう言う事?それじゃさっぱりわからない。もっとちゃんと説明
してよ」
焦れて詰問する花耶に、氷上はようやく目を開けた。
自嘲めいた笑みがその唇を歪ませる。
「お前に与えた血の、負の側面だ。俺の血は本来、交わるべきじゃ
ない。お前の身体の中でギリギリの均衡を保ってる。些細な切っ掛
けで簡単に破綻する」
「それは、あたしが死ぬって事?」
「死ぬまで行かなくても無傷ではいられない。あるべき部分が失わ
れるんだ。甚大な影響を及ぼすだろう。それほど強く結び付いてし
まったんだ、お前の中で俺の血は」