月下行 後編
振り返った顔には、はっきりと敵意と憎悪が浮かんでいた。滅多に感情
を表に出さない久宝寺のそれに、またも場が静まり返る。
「あんたが何を考えてるか、わからない。けど、あたしは思い出した。
もし言い訳があるって言うなら、聞いてやるわ。だと」
押し殺した低い声の裏に呪詛の言葉でも隠されていそうだった。氷上は
苦笑した。そして苛烈な眼差しを向ける久宝寺に曖昧に頷く。
久宝寺は忌々しそうに眦を吊り上げた。
「────」
「え?何?あっ、おい!?」
久宝寺の薄い唇が開いた。何かを言ったようだが声として聞こえた物は
無い。その場にいたすべての者が茫然とした。
「おい!?何だって言うんだよ!?」
さっさと久宝寺は立ち去る。引き留める声も全て無視だ。その姿が完全
に消えて、ようやく皆も騒ぎ出す。
「何だったんだ?あいつ」
「さあ?」
越田が傍らの山守に訊く。口々に騒ぐ声を聞きながら、氷上は微笑む。
『言っておくが、俺は認めちゃいねえ。あいつが許そうともな。だから
結界は厳重に頑丈に結び直した。来るなら、覚悟して来い』
常人には聞こえない次元でそう挑むように伝えてきた久宝寺の声は、氷
上にははっきり聞こえていた。
◇◇◇
何かの気配が壁越しに蠢く。窓に背中を預けてぼんやり考え事をして
いた花耶は、緩慢な動作で顔を上げる。
「来た、かな」
じっと壁の一点を見つめる。取りたてて変化の見えないそこに、花耶
は異変を見出していた。
次元の歪みか、陽炎のように虚空が揺らぐ。透明な水面が波立つにも
似て、次第に揺れは強くなっていく。そしてついに均衡は破られた。
「ようこそ、と迎えるつもりはないけど。よく来たわね」
いつもの黒の狩衣姿。けれど正体を明かした今となっては姿を偽る気
にもなれないのか、ある意味で見知った”氷上”の姿だった。
「御呼びとあらばね」
久宝寺が強固に結び直した結界を、いとも簡単に破って表れた氷上の、
それが第一声だった。
「あたしは記憶を取り戻したわ」
花耶は単刀直入に話を切り出した。
「────それで?」
冷淡な氷上の反応に花耶はムッと唇を尖らせる。やや高い位置に浮か
んだ相手と対峙する為、花耶は立ち上がった。
「記憶を取り戻して、そしたら余計に訳がわからなくなった。どう言
う事よ?あんた、何を考えてるの?」
「何って?お前の事だけだよ。昔も、今もね」
歌うように氷上は答えた。それにカッとなった花耶は詰め寄った。
「ふざけてるんじゃないわよ!あんた、あたしをバカにしてるの?!」
「嘘でも冗談でもない。本当の事だ」
「だったら何で?!何で、あたしの記憶をすり替えたのよ?!どうし
て自分の血を分けてまで、あたしを助けたのよ?!」
火を吹かんばかりの咆哮だ。力強く精彩に満ちた姿。感情を剥き出し
にする花耶に、氷上は目を細めた。
「血を分けた……何?そんな事まで、思い出してしまったのか?おか
しいね。きっちり封印した筈なのに、どうしてかな?」
「あんたが悪いんでしょう?攻撃を受けたショックが切っ掛けよ」
氷上の指先が頬に触れた。そっと滑り落ちて行く感触に、花耶はうろ
たえる。氷上の思わぬ行動に怒りは瞬時に立ち消えた。
間近で眺めるその顔に、例えようもない翳りを見つけてしまったから
だ。
切ない、と言えるような眼差しが反発心を萎えさせる。
「そうだな。お前が悪い訳じゃない。悪いのは俺だ。全部、俺」
氷上が微笑む。ゆっくりと腕が伸ばされ、抱き込まれてしまう。
「俺が、俺だけが悪いんだ。罪は俺だけのモノ。だから、お前は傷つ
かなくて良いからね」
囁く声があまりに穏やかで、優しくて……花耶は抵抗を忘れた。
「氷上?ねえ?どうし……」
「わかっていた。わかっていたよ。いつかお前を苦しめる事になるっ
て。けれど諦められなかったんだ。お前を、失いたくなかった」
「だから?だから、あたしに血を与えたの?」
「そうだよ。前世でお前の髪が赤くなったのは俺のせい。俺が与えた
血のせいだ」
氷上が淡く微笑む。いつものように挑発するでもなく、ただ柔らかな
印象のそれ。
懐かしむような、名残を惜しむような様子に、花耶は漠然とした不安
を覚える。
「じゃあ、あんたはあたしの命の恩人になるの?瀕死のあたしを助け
てくれたんでしょう?」
咄嗟に手を伸ばしてその袖を掴む。氷上も驚いた様子だったが自分で
も驚いた。
「違うよ。俺は、お前を救えなかった」
「え?だって……」
氷上が首を左右に振る。悔恨の念が、その表情に色濃く浮かんでいた。
「俺はお前に血を与えた。神聖なる神の血だ。それこそ大抵の、奇跡
だって起こせる。けれど俺はお前を救えなかったんだ。結局はね」
静かな声音に花耶は困惑する。
夢の中で見た過去では、確かに氷上によって自分は助けられた筈だ。
まさか、それも真実ではなかったのだろうか?
「どう言う事よ?あたしは、あんたの血で息を吹き返したんじゃない
の?その後に拒絶反応でも起こして死んだとでも?」
「いや、血は……融合したよ。ちゃんとね。その点では問題なかった。
それで一時的にお前は生き返った。けれど俺はお前を救う事しか頭に
なかったから、重大な過ちを犯してしまった」
「重大な過ち?何、それ?」
哀しげに曇った顔。氷上は躊躇しながらも袖を掴む花耶の手を取った。
「お前に、許容量ギリギリの血を与えてしまった。必死だったから。
その事の重要性に気付きもしなかった。そして己の過誤を悟った時に
はもう、全てが遅すぎた」
押し頂いた手首にそっと唇を当てる。規則正しく命を刻む脈動に、氷
上は切なく顔を歪めた。
「神の血が……過剰に流し込んだ俺の血が、お前の体を変化させてし
まった。赤い髪に金色の瞳は異形のモノ。拒絶反応を起こしたのは、
村人だ」
そして悲劇は招かれた。花耶は殺されてしまった。同じ村の、それま
では何の問題もなく仲良く暮らしていた筈の仲間に。
「俺が意識を失っていた僅かな間の出来事だった。さすがに血を失い
過ぎて、回復するまで幾らか時が必要だった」
予想だにしなかった、と氷上は目を伏せる。
「姿は全く同じなのに、どうしてそんな無情な真似が出来るのか不思
議だったよ。神の色が。瞳の色が変わっただけじゃないか。なのに、
どうして?俺にはわからない。わからなかったよ」
気付いた時には遅かった。望まずとも異端の身となった花耶は、妄想
に憑かれかれた村人の手によって引き裂かれてしまった。
一度は取り戻したと思い込んだものを、再び失う事への絶望。思い知
らされたそれはあまりに残酷で、容赦が無くて、理性を奪うには十分
だった。
「全てを理解した俺は、すぐに彼らに裁きを与えたよ。当然の報いだ
ろう?俺の大切な者を、理不尽な理由で奪ったんだから」
「村は、どうなったの?」
「滅びたよ。村人は残らずいなくなったからね。それで俺も自由の身
になった。禁忌を犯したから、神でもなくなったけど」
「神じゃなくなった?どうして?あたしに血を分けた事が禁忌?」
「それもある。けどもっと決定的なのは、自分を祀る村人を全てこの
手で抹殺した事。与えるべき守護の代わりに死を与えたんだ。完全に
契約違反、だからね」