運命の彼方
電車がみさき公園駅に着いた時も舞は幸樹を見送らなかった、悲しみを堪えるためでもあるが、午後六時には、また逢えるからだ。
舞と幸樹は、胸に悲しみを秘め、仕事場へ向かった。
その日の午後五半時、幸樹は何時もの時間より早めに、みさき総合病院を出た。 だが、外は雨、幸樹は院内へ引き返したが、傘を借りることが出来なかったのか、雨降る中、みさき公園駅へ急いだ。
駅に着いた幸樹はベンチに座り、空を恨めしげな顔で見ていたが、小さい声で言った。 「じめじめした雨の日の別れは、あまりにも哀しすぎる」
舞との別れは哀しい、まして、雨ならなおさら悲しい。幸樹は天に向かって祈った。
(どうか、晴れてください)
その願いが通じたのか、やがて西の空が明るくなり、西日が射してきた。
幸樹は天に感謝した。
六月の太陽は、午後六時なら、まだまだ日差しが強いため、地上を水浸しにした雨も、簡単に乾かした。
雨で飛ぶことを封じられていたトンボが現われ、羽をきらりと光らせながら、上空を楽しげに飛び回っていた。
幸樹は、ベンチに座り、暑い西日を背に受けながら、出入りする電車を見ていたが、ふと、違和感を抱いた。
その原因が分かったのか、急に幸樹の顔が歪む。
(全ての電車は、暑い西日を受け、日除けを下ろしている。これでは、女性と別れができない。なんて、馬鹿なお願いをしたんだ)
やがて、六時の時報が、山々にこだましながら、プラットホーに届いた。
その時報が終わるのと同時に、木琴で奏でる美しい音楽が流れてきた。その音楽が佳境に入ったとき、各駅電車が入ってきた。
幸樹は、ベンチから立ち上がり、電車を迎える。
その幸樹の顔が失望で歪み、残念そうに呟いた。
「やはり日除けが降りている」
やがて、各駅電車はゆっくりと幸樹の前を通りすぎる、その窓は、全て、日除けが降りていた。
幸樹が失望の目で、後方の車両を見た。後方から二番目の車両に一本の黒い線が現われては消えていた。
どうやら、線路の曲がりがそう見せているようだ。
やがて、黒い線は、近付くに従い幅が広がり、日除けが降りていない窓が一つ現われ、その窓から、舞が西日の暑い日差しを顔に受けながら幸樹を見つめていた。
(貴女は、日除けを取り外してでも、僕と最後の別れをしたいんだね)
幸樹は胸が熱くなる程の感動を覚え、思わず、我を忘れて電車に駆け寄ろうとした時、舞が心の中で、幸樹に悲しい別れを告げていたのだ。
(お兄さん、もう、二度と私の目でお兄さんを見ることが出来なくなりました。そして逢うことも。だから、お兄さんの顔を目に焼き付けます。けっして、舞を哀れと思わないでください。私の胸には、いつもお兄さんが居ます)
幸樹を見た舞が、心の中で(お兄さん)と呼び掛けた声が幸樹には、サギソウの少女に呼び掛けられたように聞こえ動けなくなった。
幸樹は鷺草の少女に謝った。
(ごめんよ、君のことを忘れたりして)
幸樹は、哀しげに視線を舞の顔から青い空へ移した。
舞は、霞んで見える幸樹の姿を焼き付ける、その目に涙が溢れる。そして、幸樹に、また、私よと告げたいと思った。 しかし、出来ない、幸樹の心の中の鷺草舞は何時も幸せでなくてはないのだ。
舞に出来ることは、どんなに辛く悲しくて、死なずに頑張って生き抜き、心の中で幸樹を、私だけのものよ、と愛するしかないのだ。
幸樹は、舞の心の内は分からなかったが、朝の舞の様子から、二度と逢えなくなるということだけは分かった。
電車は動きだした。電車が消えたら、舞と永遠の別れがくると思うと悲しくなる幸樹。 「愛する人との別れは悲しい。悲しい別れに神や運命は味方しないのが当然の定め。もし、神や運命の加護があれば、辛い別れなど有りはしないのだ」
幸樹が哀しげに呟いた。
舞は見えない目を一杯に開き後方に顔を向ける、幸樹はその顔を胸に焼き付ける。 一時間前に降った雨は、東に去り、空に美しい虹を架けていた。その中へ、舞を乗せた電車が消えて行く、その電車を見送る幸樹の目は涙で光っていた。
(なぜ、今朝、あの女性の心が分かったのだろう。もしかしたら、僕の思い違いだったのかもしれない。また、僕にお礼が言いたいのなら、いつでも言えた筈だ。僕にこんな切ない思いをさせた彼女が僕に好意を抱いているのだろうか、それなら、別れたいからみさき公園駅で逢う必要がない。やっぱり、結婚か、女性は結婚が近付くと、急に心に迷いが生じるという。ただ、確かなことは、あの女性にとって、僕は相応しくないほどの年令差がある。でも、僕は彼女を愛している、死ぬほどに)
幸樹の心は、辛い別れを目の前にし、あれほど、鷺草の少女に謝っていながら、それも忘れたのか、舞への慕情をつのらせていた。
「あの女性が永遠の別れと言ったのではない。それなのに、僕はなぜ悲しむ。きっと、二週間後には逢える筈だ」
呟いた幸樹は、力なくベンチに座った。その背に暑い西日が射す。
「しかし、逢ってどうなるのだ。残るのは哀しみだけなのに」
幸樹の心は哀しみのため、千々に乱れる
(くよくよするな。また、逢えるか逢えないかは、再来週に分かる。もし、電車に乗っていなかったら結婚したのだ。その時は、心から祝福を祈ってあげる。それが僕にできる彼女へのただ一つの贈り物)
目を閉じると、幸樹の脳裏に自分を見つめる舞の顔が浮かぶ。
「僕は、貴女の顔を一生涯、この胸の中に抱いています」
その時、電車が入ってきた。
二週間後の朝、幸樹は平静を装っていたが、心の中では、舞に逢えるか、それとも逢えないのか不安な気持ちで天下茶屋駅へきた。
幸樹がプラットホームに着くと、和歌山方面へから来る電車が停車し、人々が続々と降りてくる。
その度に、プラットホームは人々で混雑する。幸樹は、その人たちの中から、髪を後に束ねた若い女性の姿を探していた。
髪を束ねた髪型は舞の髪型であるため、舞と出逢った日から無意識に探していた。
しかし、舞の姿は無かった。
やがて、幸樹が乗る急行電車が到着し、全ての乗客が降り、幸樹は空いた関に座った。 すると、発車ベルが鳴ったのと同時に、自分の横に座る人が居た。しかし、それさえ気付かないほど、幸樹は舞を探していた。
電車がスピードを上げたとき。
「お早よう」
聞き覚えのある声に幸樹は驚いて横を見た。
「なんだ、君か」
「それが、元妻に対する言葉なの!」
早苗の高飛車な言葉を聞いた幸樹は、一番、聞きたくない声を聞き、怒鳴りたいが、公共の場なので我慢した。
「何故、返事をしてくれないの!」
舞が詰め寄る。
「分かったよ、お早よう」
「別れても、元妻なんだから、それなりの対応をしてください」