運命の彼方
「いえ、お気になさらないでください」 幸樹が心配そうに尋ねた。
「痛い所ないですか」
「はい、お兄さ、いえ、貴方さまのおかげで、怪我をしませんでした」
「それはよかった」
幸樹は立ち上がるなり、女性を自分の席に座らせた。
女性は、幸樹の優しさに涙を流していた。
幸樹は、この女性になら、いくらでも優しくするのは厭わないと、なぜか思った。しかし、座席を代わったのには他にも理由があった。
それは、早苗と隣り合わせに座っていることが耐えられなくなっていたのだ。その苦痛を取りのぞくために、女神が使わしたものが、この女性だと思うほど、女性が現われたことを喜んでいた。
幸樹は、無理遣り、女性を早苗の横に座らせ、早苗に話し掛けられないように、向かいの席の前に立ち、車窓を流れ行く景色を眺めていた。
女性は、泣きそうな顔をし、その後姿を見ながら思っていた。
「お兄さん、私よ」
と名乗りたいと思ったが、横に居る幸樹の妻が居るので、どうしても名乗れなかった。 舞は幸樹の後ろ姿を見ながら、裏切られたように悲しくなった。
(お兄さんには奥さんが居る。だから、私の顔を忘れているんだ。もう、私の生きる場所はないわ)
舞は幸樹に恋人や妻が居ることを考えたら、生きて行く目標を失い、幸樹との約束を破棄し、一人で死ぬかもしれないと恐れ、考えないようにしてきた。 だが、冷徹な現実を目の前にした舞は、今ずぐにでも死ねるのなら死にたいと思った。 しかし、幸樹の後姿を見ていると、一度は話をしてから死にたいとの思いが強くなり、死ぬのが惜しくなった。
(今日まで我慢してきたんだから、後、二年の我慢できないわけがないわ。そうよ、この八年間を無駄にしないためにも、私は絶対に生きるわ」
生き返った舞は悲しげに言った。
(お兄さんは、なぜ、舞の顔を忘れたの)
舞は、自分が幸樹を一目で分かったから、幸樹も分かっていると思い、逢えた喜びが大きかっただけに、悲しみも大きかった。
だが、舞の考えは全て間違っていた。
今日まで、幸樹は恋を禁じ、鷺草の少女一筋に生きてきた。無論、早苗と再婚することなど絶対にない。 幸樹が舞の顔を忘れたのではない。子供は変化しない大人の顔を覚えられるが、子供は大人への変化が激しいために、毎日見ていないと誰か分からなくなる。その激しい変化期間の八年間、幸樹は舞を見ていなかったのだ、分かるはずがない。
やがて、みさき公園駅に着いた。
幸樹は、心残りがするのか、舞に目礼し、電車を降りていった。その後を追うように早苗が降り幸樹の姿を舞の目から消した。
(お兄さん、二年後、私はサギソウの海で待っています。その時は一人で来てね)
舞の夢は破れた。電車は、悲しみを抱いた舞を乗せ、和歌山市へ走る。
鷺草舞は祖母の死により、舞の実の父親の親戚である和泉家に引き取られ、大阪府泉佐野市へ引っ越していた。
しかし、舞の幸せは遠かったが、幸樹の姿を思い出すことで、どんな苦しみにも堪えることができた。
和泉家は裕福でなかったため、二年前、舞は高校を卒業すると、すぐ病院へ就職した。 病院は、隣県の和歌山市紀ノ川にあるため、舞は、毎日、南海本線泉佐野駅から急行電車に乗り、和歌山市駅で加太線に乗り換え、紀ノ川駅で下車し、病院へ歩いていた。
舞が勤務するよになってから一年後、後藤慎一が現われた。慎一は、この病院の他、数多くの病院を経営する理事長の息子である。
慎一は、将来、父親の後を継ぎ理事長になることが約束されているため、昨年、大学を卒業をすると、すぐ、父親の補佐をしながら、病院経営の勉強をしていた。
この病院へ来たのも、勉強するためだった。
慎一は、美しい舞を一目、見ただけで恋の虜となったのか、再三、この病院を訪れるようになり、一ヵ月前、舞に交際を求めた。
しかし、舞の心には幸樹が居るために、誰に対しても恋愛感情を持てない。だから、いくらお金持ちで、将来は理事長となる慎一でも結婚する気にはなれない。 だが、慎一は諦め切れず、何度も交際を求めてきた。
舞の先輩事務員たちは、慎一が舞に夢中だと知ると、急に、舞に冷たく当たるようになり、苛めが始まった。だが、舞は、苛めに負けずに仕事に励み今日に至ったのだ。
だが、幸樹という心の糧を失った舞は、これから、どうして生きて行けばいいのか分からなくなった。
しかし、舞は幸樹を諦めきれないため、出勤する電車に乗るときは、必ず、お兄さんが電車に乗っていますようにと心の中で念じていた。
だが、十日間、幸樹は一度も乗っていなかった。
(あの日は、何かの用で乗っていた。もう、二度と逢えない、いえ、二年後には逢えるわ、いえ、それも奥さんが居る身では、私と死ねないわ)
考えれば考えるほど、幸樹を遠く感じる舞だった。しかし、以前に変わらぬ幸樹の優しさに触れた舞には一層、辛かった。
そして、再会した日から二週間後の木曜日がきたが、舞は、まだ、諦めていなかった。 舞は幸樹に逢えるようにと念じながら電車に乗った。だが、幸樹が乗っていないのを確認するのが辛くて、人の顔を見ないようにして電車に乗った。そして、居ないときの失望を少しでも遅らそうと、電車が全速力で走りだすまでは幸樹を探さなかった。
やがて、電車が発車し、全速で走りだした。
舞は、幸樹が座っていた席を最後に見るようにと、他の席をみてから、幸樹が座っていた席を見ると、幸樹が目を閉じて座っていた。
(居た!)
それは舞の心の中の喜びの声だった。
(逢えてよかった。今日は奥さんが居ないから、名乗れるわ)
舞は、幸樹が目をあけたら名乗ろうと、その機会を伺っていたが、その気配がない。
仕方なく、舞は幸樹の前の席に座り、名乗る機会を待っていた。
「尾崎、尾崎です」
と、車内放送が聞こえたとき、幸樹が目をあけた。
舞が目礼して立ち上がろうとしたとき、幸樹は、舞を無視するように、難しい顔をして目を閉じた。
(お兄さんは私を嫌っている、そうよ、話し合いたくないのだわ。そうさせているのは奥さんだわ。だって、初めて逢った時に、私がお兄さんに、私、舞よと言い掛けたとき、邪魔をしたもの。奥さんは嫉妬焼き、いえ、私も嫉妬焼きだから、奥さんを非難できないわ)
今日は、待ちに待った出逢い、その出逢が死ぬほど辛い出逢いになったのだ。
幸樹の行為は、舞を悲しみのどん底に突き落とに十分だった。だが、幸樹が舞を嫌った訳ではない、自分の心が舞に傾くのを恐れたのだ。
今後、いくら舞が幸樹を自分に向けさせようとしても、サギソウの少女と約束があるかぎり、幸樹は舞と話さえしないだろう。
そんな木曜日が何度も過ぎ去った日、舞は仕事に励んでいると、慎一の両親が現われ、拝むようにして、慎一と結婚してくれと言ったのだ。